この世界は『マトリックス』とは逆の意味でマトリックスかもしれない

この前『マトリックス』を再鑑賞した。

 

何回観ても面白い。

20年以上も前の映画だというのにまったく古く感じないし、それどころかむしろ新しささえ感じる。観るたびに発見があるし、新しい気づきを与えてくれるすばらしい作品。

 

最近、人間は3次元存在ではなく4次元存在ではないかと考えている。4次元というのは3次元空間に時間を加えた4次元という意味ではなく、3次元空間にもうひとつ異なる軸のベクトルを加えるという意味での4次元である。人間の本質は4次元にあって、3次元世界にいると思っているこの私という存在は、4次元存在である私の一つの影にすぎないのではないかという仮説についておれは考えている。『マトリックス』を観ていると、自分の仮説もあながち間違っていないのではないかという気持ちがさらに強まった。

 

マトリックス』におけるマトリックスとは「仮想現実」のことであり、われわれが存在していると思っているこの現実は実は虚構にすぎないというのがこの映画の骨子だ。はるか昔、人間は機械との闘いに破れた。人間は機械を倒すために核を使って空を覆い機械の動力源となる太陽光エネルギーが届かないようにした。闘いに勝った機械は、太陽光エネルギーのかわりに、人間の生体反応によって生じる電気を動力源にすることにした。人間は機械によって栽培され乾電池化された。電極につながれた人間が乾電池としての役割を果たしているあいだに見ている光景がマトリックスなのである。ほとんどすべての人間がマトリックスを現実だと思いこみそれが虚構にすぎないということに気づかないまま一生を終える。しかし主人公のネオのように、一部の人間がこの世界は何かおかしいんじゃないかと疑問を抱く。そこにトリニティやモーフィアスが現れネオを本当の現実へと導いたのだった。

 

マトリックス』は、われわれが見ている感じているこの世界はコンピューターによるプログラムにすぎず本当の世界は別にあると教えてくれる。この考え方は、この世界、われわれが生きているこの世界に当てはめても正しいようにおれは思う。この世界が本当は4次元であるならば、3次元世界はある意味では虚構であるということになる。

4次元空間はわれわれには見えないのでイメージがしづらい。次元を落として考えてみよう。われわれは3次元空間にいる。3次元の身体を持ったおれに光を当てると地面に影ができる。この影は2次元だ。影は地面という2次元に存在している。影は地面や壁といった2次元平面のうえでしか存在できない。この影がおれ同様に人格を持ち思考できるものとする。影は2次元平面上でしか移動できず、第3の次元を認識することはできない。影は第3のベクトルである「上」を見ることができないからだ。だから影にとっては2次元平面こそが世界のすべてだと思っている。しかし3次元世界に存在しているおれから見れば2次元平面は世界のすべてではない。たしかに影の存在できる地面や壁といった2次元世界は存在している。しかしそれは3次元世界からしてみれば、世界の一部であって、世界のすべてではないのだ。影がすべてだと思っているその世界は、われわれからしてみればある意味で虚構なのである。

以上のことを一つ次元を上げて考えてみる。この世界は実は4次元であり、われわれが存在している3次元のこの世界はその一部であって、すべてではない。4次元に存在するわれわれからしてみれば、3次元世界にいるわれわれはその影なのである。たしかに3次元世界は存在しているが、3次元世界における地面や壁と同じように、この3次元世界は4次元世界の構成要素にすぎないのだ。この意味において、われわれが存在していると思っているこの世界もまた虚構、マトリックスなのである。

 

ネオはトリニティやモーフィアスによって本当の現実に導かれるわけだが、マトリックスにいるネオの動きはトリニティやモーフィアスからは丸見えだった。ネオの自宅のパソコンには白いウサギを追えというメッセージが表示される。その後自宅にフロッピーディスクを受け取る男女の集団が訪れる。女の肩には白いウサギのタトゥーが入っていた。その女を追った先にいたのがトリニティだった。パソコンにメッセージを表示させたのはトリニティだった。トリニティはあなたのことはすべて分かってるという。夜眠れない訳も、夜な夜なコンピューターで何をしているかも、彼を捜していることも。あなたはある疑問の答えを探している。「マトリックスとは何か?」

マトリックスは至るところに存在する。この部屋のなかにもある。窓の外を見たときも、テレビをつけたときも、仕事場でも感じる。教会でも、税金を払うときも。モーフィアスはそうネオに言う。3次元世界も至るところに存在する。われわれのまわり、存在しているもの、空間、行為、すべては3次元世界である。しかしこれは真実を隠すための虚構にすぎない。真実は3次元世界ではなく、4次元世界にあるのだから。「真実とは何か?」ネオはモーフィアスに尋ねる。「君は奴隷だということだ。君は囚われの身としてにおいも味覚もない世界に生まれた。心の牢獄だ。マトリックスは人に正体を教わるものではない、自分の目で見るしかない」レッドピルを受け取ったネオは本当の真実を知る。

ネオは闘いの訓練を始める。柔術やカンフーのプログラムをローディングしてもらい一瞬でそれをマスターする。そしてモーフィアスと仮想空間で闘う。モーフィアスは動きが速すぎてネオにはとらえられない。モーフィアスは問う「なぜやられた?この仮想空間でスピードの原因に筋力があると思うか?それは本物の息か?速く動こうと考えるな、速いと知れ」ネオはだんだんと知るようになる。そしてモーフィアスを追いつめ「意味が分かったよ」と言う。「心を解き放つんだ、入り口までは案内するが、扉は君自身で開けろ」とモーフィアスは返す。

 

マトリックス』においては、心が身体の牢獄である。心が身体の限界を決める。だからネオはモーフィアスに追いつけない。しかし速いと知ることでネオは覚醒する。そしてモーフィアスの動きを超す。その先に一番有名なシーンである身体をのけぞらせて銃弾をよけるシーンがある。モーフィアスはネオに心を解き放つんだとアドバイスする。

われわれのこの世界はむしろこれとは逆なのかもしれない。心が身体の牢獄なのではなく、身体が心の牢獄なのだ。身体が知覚できるのは3次元までである。われわれが3次元世界がすべてだと思い込んでいるのは身体が3次元世界までしか知覚できないからだ。むしろ身体のほうが牢獄となって世界認識に限界を作っているのだ。われわれの心が4次元にあるとしたら?身体は心の影なのだ。

心が4次元世界にあるとしたら、トリニティがネオのすべてが分かっていたように、心は3次元世界のわれわれのすべてを知っていることになる。トリニティはネオの過去や現在だけでなく、未来さえも分かっていた。だからこそ、ネオのもとに数十秒後に現れる白いウサギを追えというメッセージを送ることができた。心も同じである。心はわれわれの未来をも知っている。しかし3次元世界にあるわれわれはもちろん未来を知らない。ネオが自分自身の未来が分からないように。

しかし心がわれわれの未来を知っているという表現は正確ではないと思う。おそらく心はシュレディンガーの猫と同じ状態にある。つまり心は可能的なすべての状態が重なっているシステムのことをさすのだ。われわれが猫を観測するまでは、生きた猫と死んだ猫は重なり合った状態にある。4次元世界において、生きた猫と死んだ猫は両方存在している。しかし3次元世界にあるわれわれがそれを観測した瞬間、猫はどちらかの状態で存在する。われわれが見るのは猫の影である。4次元にある心には今現在生きているおれと死んでいるおれが重なり合った状態にある。だが今このパソコンに記事を書いているおれは生きた状態で存在している。この生きているおれは4次元から射影されたおれなのだ。

物理学者のカルロ・ロヴェッリは『時間は存在しない』という本を書いたが、彼が言うように時間は存在しない。しかし3次元世界にいるわれわれからすれば時間はあると思っているし、だからこそ電車やバスに乗る時間から逆算して行動している。しかし上記にあるように、心にはすでに未来の死んでいる自分も存在しているのだ。同じように、4次元にある心には未来の電車やバスに乗る自分も重なりあった状態で存在している。つまり4次元では、3次元にあるすべての自己、過去の自己や現在の自己、未来の自己が重なりあった状態にある。過去と現在、未来は融けあっている。だから4次元において時間は意味を成していないのだ。このような意味で時間は存在しない。

 

3次元と4次元の関係性を上記のように理解すると、さまざまなことが理解できるようになる。たとえば禅問答がなぜ論理崩壊するのか。それは禅が教える世界が4次元を指すからだ。われわれは4次元で起こっている現象を3次元世界で解釈するために、論理がおかしいと思うのである。哲学者の西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一も4次元世界のことを指している。3次元世界から見れば、4次元の状態は絶対的に矛盾した状態が自己同一した状態にある。自己同一というのはつまり、あらゆる現象が重なり合っている状態のことだ。そして、そこは絶体無の場所である。3次元世界から見れば、4次元は絶対無の場所である。時間を例に出せば、4次元では過去・現在・未来はすべて重なり合ってそれゆえに意味を成していない、存在していない。つまり無である。しかしその無から射影された3次元世界で、われわれは言葉によって無から意味を生成しているのである。

もしかしたら宇宙のはじまりもこれと同じなのかもしれない。ビッグバンによって宇宙は誕生したというが、ではビッグバン以前はどうなっていたのか?それはまだ誰にも分かっていない。ビッグバン以前は無の状態だった。無というのはつまりすべてが重なり合っている状態である。そこに神が「光あれ」と宣言したとき、無から射影された現在の宇宙が誕生したのかもしれない。

 

マトリックス』は『不思議の国のアリス』をモチーフにしている。アリスは穴に落ちたことで別の世界に行く。ネオはレッドピルを服用したことで、仮想現実から本当の現実へ行く。上記に述べてきた4次元は『不思議の国のアリス』よりも芥川賞受賞作『穴』や『となりのトトロ』に近い。この世界は別の世界とパラレルにあるのではなく、重なり合っているのである。メイやサツキは別の世界に行ったのではなく、あれは彼女達の世界とトトロやまっくろくろすけがいる世界が重なり合っていたのである。4次元はこういうイメージである。さらにいえば、われわれが第4の次元を知覚することができない以上、その第4の次元にトトロやまっくろくろすけが現実に存在している可能性がある。おとぎ話でも空想でもなんでもなく、本当に現実に存在している可能性はある。もちろん神も、悪魔も、ユニコーンもドラゴンも、その次元に存在している可能性はある。

 

「穴」の「穴」 - Living, Loving, Thinking, Again (hatenadiary.com)

 

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不思議なのは、物理学者にしろ、数学者にしろ、哲学者にしろ、これらの人たちは4次元の空間については考えるのに、なぜ自分自身については考えないのだろうか?なぜ人間そのものが4次元だという可能性については考えないのか?人間そのものが4次元だという仮定すると、さまざまなことがすんなり理解できると思うのだが。