物事を深く考えるために『バカロレアの哲学 「思考の型」で自ら考え、書く』は最強の一冊

何気なく手に取ったがすばらしい内容の本だった。大学1年の時の自分に贈ってあげたい。

 

物事をちゃんと考えるとか、批判的に考えるとか、メディアリテラシーを身に着けるとか簡単に言うけど、じゃあどのようにすればいいのかよく分からない。何をどうしたらちゃんと考えていることになるのか、批判しているのか、メディアリテラシーが身についたと言えるのか。大学1年の時の自分は、ちゃんと学問したい、物事を多角的に観ることができるようになりたい、深いレベルで考えられるようになりたいと思っていても、どうすればいいのか分からなかった。もがき苦しんで虚無感に襲われた。この本は、バカロレアで出題される課題を例にして物事を深く考える方法を教えてくれるとてもすばらしい一冊だった。あのときの自分に贈ってやりたい。

 

バカロレアというのは、フランス版の大学入試みたいなもので、哲学の科目がある。そこに出題される問題はとてもシンプルだが、だからこそ考えがいのある問題ばかりだ。

・労働はわれわれをより人間的にするのか?

・技術はわれわれの自由を増大させるのか?

・権力の行使は正義の尊重と両立可能なのか?

こういった問題をフランスの高校生は4時間かけて考えて論文を書くという。ハイレベル!

 

本書はこの問題を解くにあたって必要な「型」を教えてくれる。問題一つ一つに対する解答の内容はもちろん違うわけだが、それを解く枠組みはすべて同じだ。この型を身に着けさえすれば、社会にある問題にしろ、自分でふと思った疑問にしろ、対応できる。

 

まず最初にすべきことは、問題を分析すること。つまり、その問題に含まれる言葉の意味を定義すること。

労働はわれわれをより人間的にするのか?という問いに対して、労働とはそもそも何なのか、人間的にするとはどういう意味なのかという問いが生まれる。これを自分なりに定義することで問題へのとっかかりが生まれる。そして、人間的にすると思うのなら答えは「はい」だし、そうでないなら「いいえ」で、その論拠を書いていく。その際に、哲学者の言葉を、何の本でどう言っていたかを引用しながら論文を書くと満点である20点に近い答案になるようだ。これを高校生がやるってのはとても大変だなと思う。まぁフランスの高校生でもほんの一握りしか合格ラインである10点を超えてこないらしい。そりゃそうだ、自分も小論文を書いて大学に合格したが、ほんとうにクソみたいな文章しか書けなかった。哲学の本を読もうにもまったく理解できないから、自分の文章の論拠として引用するなんてレベルにはまったく及ばないし。

 

ただ重要なのは、古今東西の哲学者の言ってることを引用できることではない。引用して文章を書くだけなら、日本の大学入試とかわらない。そうではなくて、問題にある「労働」とか「人間的」とか「権力」とか「自由」というのが、何を意味するのか自分なりに定義できることがもっとも重要なのだ。それが深く考えるということだと思う。労働とは一体なにか、何をしたらそれは労働になるのか、それは動物がエサを得ることとどう違うのか、人間的になるとはどういうことか、それは労働とどう結びつくのか。一つの問いから複数の問いを芽生えさせ、自分なりに定義し、それをもとに自分の思考を紡ぐ。哲学者の言ってることは、自分の思考を補う補助線にすぎないし、必ずしも必要ない。

 

バカロレアは大学入試であって、良き市民を育成するために哲学の科目が入っている。

日本でもバカロレアは導入されつつあるが、フランスとは哲学に対する土壌が違うため根付くのかどうかはこれからのお楽しみだ。とはいえ、日本はおそらく創造的な人材の育成を目的にバカロレアを導入しようとしているのだと思うが、哲学が国家のために役立つ人材を育成できるのかは分からない。

コロナは経済を大きく停滞させた。引きこもりは社会問題化して久しいが、引きこもりほどコロナ蔓延防止に貢献した人たちはいない。おそらく国家は経済的な発展のために哲学を利用したいだろうが、哲学はもっと広い意味で物事を考えることであり、哲学が経済発展に役立つどころか、むしろ失速させるものになる可能性だってある。引きこもりは経済発展においてはマイナスの存在だが、コロナ蔓延防止にとってはプラスの存在である。経済発展は場合によっては国民にとってマイナスの要素もはらんでいる。ならば、積極的に経済を失速させるべきではないかという考え方もある、あるいは国家そのものの是非さえ問うことだって可能だ。人間にとって国家は必要なのか?日本のような、沈みかかっている船の後始末を若者や子どもに負わせることは不幸なことではないのか?統一教会の二世問題が話題になっているが、そもそもすべての国民は、生まれた瞬間からその国家の言語や歴史、文化を学校によって叩き込まれ洗脳されているといえる。これは問題にならないのか?国家そのものの維持のために国民一人一人の生は犠牲にされてもいいのか?問いはつきない。

 

哲学レベルの深い思索は、日常の生活レベルの思考とは次元が違うし、あまり役に立たない。役に立つというのは、日常のレベルでいうと結局金になるかということだが、哲学をやってると下手すると金にならないどころか金を稼ぐ気力さえ失われる。金を稼ぐことそのものさえ問うわけだから。フランスという国家がどこまで考えて哲学をバカロレアの科目に加えたのか知らん。日本はおそらく経済発展のためにバカロレアを見習っているかもしれんが、哲学を甘くみないほうがいいと思う。