神と紙 なぜ神は死んだのか

 

 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(以下『プロ倫)』でマックスウェーバーは、利子を否定し禁欲的生活を送るプロテスタントの倫理が、逆説的に資本主義の精神を育んだと主張している。

 プロテスタントの倫理と、資本主義の精神という一見関係のなさそうな二つの事柄が実はつながっていることを論理的に説明している点がおもしろいわけだが、それを説明する過程で、「予定説」という重要なキーワードが出てくる。

 

 予定説というのは、死後の世界で救済されるかどうかは、神によってあらかじめ決められているという説のこと。『プロ倫』では、プロテスタントは予定説を次のように解釈したとしている。

 

 神によって救済される人はあらかじめ決められている(予定説)

→どのような人が救済されるのか?

→多くの人に善行を施した人だろう

→善行とは何か?

→善行とは労働のことだ!

 

 予定説をこのように解釈したプロテスタントは禁欲的に労働に励み、結果としてこれが資本主義の精神を育んでいった。

 

 筆者は学生時代に社会学の講義で『プロ倫』をやったが、プロテスタントの予定説解釈を聞いた学生の多くは、死後の世界で救済されるかどうかがあらかじめ決まっているなら、何をしたってすでに決まっているのだから自堕落に生きたプロテスタントもいたのではないかと思った。

 救済されるかどうかは死んでみないと分からないのだ。生前禁欲的に労働に励んだ人でも死後救済されないかもしれないし、自堕落で適当に生きた人でも救済されるかもしれない。

 

 だけれどプロテスタントたちは、救済されるべき人間は多くの人に善行を施した人だと考え、死後救済されるという確証を得るために禁欲的に労働した。

 

 誤解してはいけないが、プロテスタントはお金を稼ぐために働いたのではない。彼らはあくまでも、自分は救済されるべき人間なのだという確証を得るために働いたのだ。それが結果的に、禁欲的に働き、利子を得る資本主義の精神へとつながっていった。

 

 『プロ倫』では以上のように説明した後、最後になんとも婉曲的な表現をしている。

…禁欲は僧房から職業生活のただ中へ移され、世俗内的道徳を支配しはじめるとともに、こんどは非有機的・機械的生産の技術的・経済的条件に縛りつけられている 近代的経済秩序の、あの強力な世界秩序を作り上げるのに力を添えることになった。が、この世界秩序たるや、圧倒的な力をもって、現在その歯車装置の中に入りこんでくる一切の諸個人―直接にその経済的営利にたずさわる人々のみでなく―の生活を決定しており、将来もおそらく、化石化した燃料の最後の一片が燃えつきるまで、それを決定するだろう。バックスターの見解によれば、外物についての配慮は、ただ「いつでも脱ぐことのできる薄い外衣」のように聖徒の肩にかかる止めねばならなかった。それなのに運命は不幸にもこの外衣を鋼鉄のように固い外枠と化せしめた。禁欲は世俗を改造し、世俗の内部で成果をあげようと試みたが、そのために世俗の外物はかつて歴史に比を見ないほど強力となり、ついには逃れえない力を人間の上に揮うにいたった。世界の名著50 P289

 

 世界を見渡せば分かるように、資本主義の精神はプロテスタントだけが有するものではなくなっている。日本人のほとんどがプロテスタントでもないのにも関わらず、禁欲的で利子を求める資本主義の精神を持っている。

 

 これはなぜなのか?なぜプロテスタントだけでなく世界中の人々が資本主義の精神を持つに至ったのか?『プロ倫』ではこの理由は考察されていない。

 

 

 これは他者への奉仕である労働が何をもたらしたのか考えることで分かる。

 

 労働によって何をしているのかといえば、結局のところ技術を発展させているわけだ。

matsudama.hatenablog.com

 

 上の記事でも書いたが、人間は知恵の実を食べて以来、自然を改変して自らの生に役立つ道具を生み出せるようになった。人類の歴史をみれば、それは道具の発展の歴史なのだ。

 最初、人間はどこ行くにも自分の足で行った。それが馬に乗るようになり、馬車ができて、鉄道や自動車ができて、飛行機が誕生した。それに合わせて、人々は自分の足で行くよりも、こうした交通システムを利用して目的地へ移動する。自分の足で行くよりも速くて合理的だから。

 江戸時代における出張(参勤交代のこと)では何日もかけて自分の足(大名は籠だけど)で行ったが、現代の出張で自分の足でトコトコ行く者はいないだろう。だいたい新幹線とか飛行機だ。

 お伊勢参りも江戸時代は東海道をひたすら歩いて行ったが、現代はだいたいバスとか新幹線とかで行くだろう。歩いていこうという人間はまぁいないだろう。

 普段の家事でも、昔々おじいさんは山へしばかりに、おばあさんは川へ洗濯に行ったものだが、現代では山に行くのではなく家で給湯器や炊飯器のボタンを押すだけ、川へ行くのではなく洗濯機のボタンを押すだけである。

 このように、人々は技術の発展と普及により、自分の身体ではなく、システムを利用して生活している。

 

 これらのシステムを使うには当然ながら金がかかる。

 自分の足で行くなら無料だが、バスや新幹線を使うのは金がいる。

 山でとってきた薪はタダだが、炊飯器や給湯器、洗濯機は金がいる。電気代やガス代、水道代、故障すれば修理費がいる。

 

 私たちは便利な世の中になることを歓迎するが、それと引き換えにお金への依存をそのたびに強めていく。技術が一般化すればするほど、そのたびに自らの家計簿に一つまた一つと支出項目が追加されていくことになるのだから。

 それでいて恐ろしいことにお金のかからない生活に後戻りすることはできない。現代社会で川に洗濯しになんか行けないし、徒歩で出張しますからなんてこともできないのだ。

 多くの人が「お金がない」と嘆いているが、それもそのはずでたとえば30年くらい前なら存在しなかった支出項目、携帯の端末料金とか通信費、インターネットの代金などが今では家計簿に追加されているからである。

 このようにして、技術が発展・一般化するに比例して、人々はお金への依存の沼から抜け出せなくなっていった。

 

 哲学者の内山節が滞在する群馬県上野村ではかつて、家にお金がなくなると男は出稼ぎにでて、そのあいだ女子供は味噌をもって山に上がっていたらしい。山に上がれば、木の実や山菜など食べ物が豊富にあるし、簡易的な小屋だって建てられる。薪で暖もとれる。このころまではお金がなくても暮らしていける技術と知恵を人々はまだ持っていたし、何よりそうした暮らしができるほどの豊かさが自然にはあった。そしてシステムそのものがまだ、「いつでも脱ぐことのできる薄い外衣」だった。

 だが、資本主義が技術を発展させ、その過程で自然環境を壊滅的に破壊したせいで、人々はお金に依存しなければ生きていけないようになり、自然環境は人間どころかクマやイノシシなど動物の食料さえも提供できないほど貧弱なものとなってしまった。システムは強力な世界秩序を持った「鋼鉄の檻」と化して人々をその中に閉じ込めた。

 

 

 プロテスタントは、自ら神と契約し、自発的に禁欲的に労働した「精神ある専門人」だったわけだが、現代人は違う。現代人はお金がなければ生きていけない、強制的に禁欲的に労働しなければならない「精神なき専門人」なのだ。

 

 「ピューリタンは職業人たらんと欲したーわれわれは職業人たらざるをえない。」

                                            世界の名著 P289

 

 

 しかし精神がないというのは、神に対しての話であって、紙幣つまりお金に対しては違う。現代人はお金に対しては「精神ある専門人」である。

 神も紙も、どちらも共同幻想である。しかし神と紙は違う。神はもしかしたら死後に救済してくれるかもしれない。一方で、紙は現世での救済を約束してくれる。

 

 紙があれば、栄養のある食べ物を買うことができるし、風雨に耐えられる家を建てることができるし、寒さをしのげる衣類を手に入れることができる。

 それでいて紙に仕え禁欲的に労働することは、きわめて利他的で他者に奉仕する行為である。というのも、たくさん働いてお金を稼ぎ税金をたくさん納めれば、国家がそれを大学の研究費に回せるからである。それによって医療技術や作物の生産技術が向上しより多くの人の命が救済できるからである。また、お金を稼いでたくさん使えば、それだけ企業を潤すことになり、これもまた多くの人の収入増加につながって命を救済できるからである。たとえお金を使わず銀行で貯蓄しても、それによって銀行は資金を運用でき結果的に企業が活発化する。

 

 このように紙は神と違って現世の救済を約束してくれる。どんなに神に祈り禁欲的に労働しようが、神が病気を治し豊穣な作物を恵んでくれるか分からないが、紙があれば治療を受けられ作物が手に入る。

 それでいて神は永遠普遍の変わらない存在だが、紙はシステムをひたすら発展させる存在なので、数十年前なら治らなかった病が治るし、作物改良によって数十年前とは比べものにならないほどうまくて栄養価の高い食べ物が手に入る。

 

 そして、システムが発展して強固なものになっていくほど、この世界にある訳の分からないものは駆逐されていく。

matsudama.hatenablog.com

 

 『エクソシスト』という映画を知っている人も多いと思うが、この映画では突然女の子がおかしな言動を始める。発狂して卑猥な言葉を吐いたり、ブリッジして階段を駆け下りたりする。

 

 システムがまだ強固なものではなかった時代、人々は神の存在を信じていて、何か病気にかかったとき、神に祈っていた。あるいは、病気にかかったのは悪魔のしわざだと考えていた。しかし、科学が発展して病気がウイルスのしわざだと分かると、人々は神に祈るのではなく、病院に行くようになった。

 

 『エクソシスト』でも、女の子がおかしな言動を見せ始めると、母親は教会ではなく病院に行って診療してもらう。最初身体の異常を調べてもらうが、おかしな箇所はないので、医者は今度は精神科に診てもらえと案内する。で、カウンセラーが診ても女の子はおかしいままなので、もはや手に負えないと断念する。ここでようやく母親は、娘は悪魔に憑りつかれているのではないかと思う。

 そこに若い牧師が現れるのだが、この牧師でさえ、現代に悪魔なんていないと言うのだ。現代では、悪魔祓いなんてものはもはや都市伝説扱いになっているのが分かる。最終的に、隠遁していたかつてのエクソシストが若い牧師といっしょに悪魔祓いをし、みずからの命と引き換えに女の子の悪魔祓いに成功する。

 『エクソシスト』を見れば分かるように、科学が全盛となった今、神が登場する余地はほとんどない。代わりに科学が神の役目をじわじわと奪っている。科学が進歩すればするほど、あらゆる現象は神によるものではなく、自然現象にすぎないことが分かっていった。

 

 科学を進歩させるには、資金が必要である。潤沢な研究資金があればそれだけ科学は発展する。結局のところ、紙が神を蹴散らしたのだ。人々は、信仰対象を神から紙へと変えた。

 以上のようにして、マックスウェーバーがいうところの世界の脱呪術化が起こり、ニーチェは「神は死んだ」と宣言した。