戦争は明らかに国家のプレゼンスを高めたな

戦争は、金儲けをしたい人間や企業が意図的に仕掛けるものだと思っていたが、最近国家のプレゼンスを高めたい政治家も仕掛けているんじゃないかと思った。ウクライナとロシアの戦争は、プーチンがとち狂って開始したと思われているが、個人的にはアメリカが裏で何か画策したと思っている、陰謀論だけど。

他国のことは分からないけれど、少なくとも日本では明らかに国家のプレゼンスが高まった。まぁそりゃそうだ、他国が日本に向かって攻撃してきたら国民を守れるのは国家しかないのだから。しかし戦争というのはいつも国家どうしの戦いであって個人には全く関係のない話だ。なのに犠牲になるのはいつも個人というのはふざけた話である。安倍晋三の悲願だった改憲が、彼の在任中にかなわなかったし、かないそうな気配すらなかったのに、今は国民の半分近くが改憲に賛成している。これはひとえに戦争が起こったからである。国民の多くが生活に苦しむなかでも、国民の日常生活とはほとんど関係のない防衛費の増額も戦争のおかげで簡単にできるだろう。

ここ10年か20年くらいで国家の存在感はだいぶ薄くなったように感じる。約10年前に仮想通貨が生まれて、これはまだ投機の対象でしかないけど、今後通貨として安定してきたら明らかに国家の脅威になる。GAFAのような、一国家をしのぐほどの経済力を持った企業が台頭してこれは今後も規模を拡大する。環境問題やコロナは資本主義に大打撃を与え、国家はこれらの問題と経済のバランスをとることができない。

最近アナキズム関連の雑誌や本をよく目にして自分も何冊か読んだ。アナキズム思想が注目されるようになっているのはやっぱり国家に対する不信感が高まっているからだろう。ゾミアという国家を持たない人たちが暮らしている地域があって、それは中国とかインド、ベトナムにはさまれた山岳地帯なのだが、『ゾミア』によるとそこに暮らす人たちは「未開人」ではない。彼らは文字を持たないし、歴史も持たない。だがそれは未開ではない。未開という言葉は、未発展という印象や、未開人は国家に属する人より「下」だという印象を与えるが、それは国家が国民にそのような印象を持つよう植え付けたからである。ゾミアの人々はむしろ、国家から積極的に逃れた人たちである。国家は人を隷属させ自由を奪う、だから彼らは山の上へ上へ、国家の統制が及ばない地域へ逃避した。文字や歴史は国民のアイデンティティになっている、それは同時に国家が国民を統制するツールでもある、ジョージ・オーウェルの『1984年』は小説ではなくて事実なのである。

よく形容されるように、日本というのは沈みかかっている船で、恐ろしいことにそのかじ取りをしているのはあと10年、20年で死んでいく価値観の凝り固まったじじいばかりである。温暖化のおかげ北海道の米がうまくなったとかいう麻生みたいなじじい、自分たちに都合のいいシステムに改悪することしか興味のない国会議員ばかりが政治の中枢に居座っている。そんなやつを選んでいるのは国民なのだが、その国民も大半が高齢者でシルバー民主主義になっているので、結局何十年先も見据えた政治にならない。高齢者の、高齢者による、高齢者のための政治になっているので、イーロン・マスクの言葉など引用しなくともこの国は消滅するのである。

まぁこういう事情もあってアナキズム思想が注目されるようになったのだろう。国家がなんのためにあるのかといえば、それは国民の生命や生活の保護に他ならないのだが、国家がむしろその足かせになるのであれば、国家は消滅したほうがいいのではないか?税金をたくさんふんだくって、賃金も上がらず、生活は苦しくなる一方。それならたとえば家族や親せき、あるいは気の合う仲間どうしで、相互扶助システムや生活協同組合を構築したほうが生命や生活の保護につながるのではないか?ろくにかじ取りもできない船長の沈みかかっている船にのっているよりも、簡素なボートを構築して船を脱出したほうが自分の生命や生活を維持できるのではないか。こんなふうに考える若者は増えてきているように思う。

もし、そうした考えを打ち砕くために政治家が戦争を仕掛けたとしたら?これは陰謀論にすぎないが、もしそうだとしたらこんなに恐ろしいことはないな。そりゃ生活協同組合では戦争に太刀打ちできないからな。生活協同組合に戦車や武器は必要ないわけで、仮に中国やロシアという船が攻撃を仕掛けてきたら簡素なボートなど一瞬で沈む。たとえ沈みかかった船であろうとボートよりは生命や生活を保護してくれるだろう。

仮想通貨や環境問題、巨大企業など、国家にとっての脅威はたくさんある。しかし一発戦争を起こしておけば、国家のプレゼンスは一気に高まる。国家は絶対に必要なのだと国民に思わせればそれで十分なのだ。政治家はこれからも国民から搾取できる。仮に自分たちの国が戦争に巻き込まれても、死ぬのは下っ端の国民であって政治家ではない。政治家にとっては「されど死ぬのはいつも国民ばかり」なのだ。