『ファスト教養 』と『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

レジ―著『ファスト教養』を読み終わる。興味深い内容だった。

ファスト教養のファストとは、ファストフードのファストと同じで、陳腐な教養というような意味。

「楽しいから」「気分転換できるから」ではなく「ビジネスに役立てられるから(つまり、お金儲けに役立つから)」という動機でいろいろな文化に触れる。その際自分自身がそれを好きかどうかは大事ではないし、だからこそ何かに深く没入するよりは大雑把に「全体」を知ればよい。そうやって手広い知識を持ってビジネスシーンをうまく渡り歩く人こそ、「現代における教養あるビジネスパーソン」である。着実に勢力を広げつつあるそんな考え方を、筆者は「ファスト教養」という言葉で定義する。

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人格の向上とか人生の質を高めるためではなく、上司や取引先との会話をスムーズにしビジネスに役立てるために教養を身に着ける。古典と悪戦苦闘して泥臭く読み解くのではなく、youtubeでささっと理解する。映画やドラマは倍速で視聴する。そうやって知識を身に着け、ビジネスシーンに利用する。これが教養あるビジネスパーソンらしい。

自分の周りにはこういうタイプの人間がいないけど、東京や大阪にはこういう「教養もどき」がいるのか?とはいえ、ちょっと前はファスト映画という言葉もあったし、今の大学生はオンラインの講義を倍速で視聴するらしいから、その延長線上に「現代における教養あるビジネスパーソン」がいるのだろう。

筆者レジ―と同じく、自分もこのファスト教養に批判的な立場だが、レジ―が本で指摘するように、こうしたファスト教養的思考が蔓延しているのも、ビジネスパーソンの置かれる状況がそれだけ切迫しているからだ。この息苦しい世界から振り落とされないようサバイブしていくためには、いろんなインフルエンサーが言うように教養が必要なのだ。それを手っ取り早く身に着けておかないとすぐに置いてけぼりになる。だからコスパ、タムパ的思考を内面化している現代人は、youtubeや倍速視聴で手っ取り早く知識を仕入れる。

 

『ファスト教養』を読んでいると、マックスウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を思い出した。

利子や儲けを否定したプロテスタンティズムの教義。しかしそのプロテスタントたちが、実は資本主義の精神を体現していたと説く画期的な論考が『プロ倫』。『プロ倫』はこうした逆説を丁寧に説明したわけだが、このような逆説的現象が現代の日本社会にも起きているのだなぁと『ファスト教養』を読んでいて感じた。

 

教養は、リベラルアーツを日本語に訳したものである。リベラルは自由を意味する。

教養というのは曖昧な概念ではあるが、リベラルアーツという言葉の訳だと考えれば、自分自身を自由にするための知識であるといえる。自分が置かれている状況を認識させ、そのシステムから自由にさせてくれるための知識が教養であるといえる。

池上彰とか出口治明とか、ホリエモンとか中田敦彦など、影響力のある人間が、「教養を身に着けろ」と言う。だからこそ、現代のビジネスパーソンは「教養を身に着けなければ!」と思い、youtubeを視聴したり、彼らの本を読んだり、オンラインサロンに参加する。筆者レジ―は、彼らは「教養を身に着けろ」と言うが、その教養はビジネスに役立てるための知識でしかないと批判する。

この批判を読んでいて『プロ倫』を思い出した。たぶん彼らは、ファスト教養ではなく、本当の意味での教養を身に着けろと言っているのだと思う。だけど、切実な社会状況も相まって、受け手は教養をファスト化してしまうのだ。そして、教養を身に着けることを自己啓発の一つの手段とする。

先に書いたように、教養というのはリベラルアーツで、自身をシステムから自由にしてくれる知識が教養である。しかし、現代のビジネスパーソンは(ファスト)教養を身に着けることで自己を啓発し、資本主義システムにより迎合していくわけである。教養が、自由になるための知識ではなく、逆にシステムの奴隷になっていくための知識へと変換されてしまっている。このような逆説的な現象が現代社会でも起こっているわけである。これが『プロ倫』を思い出した理由である。

 

資本主義がこれだけ強力なシステムとして世界を支配しているのは、アンチテーゼさえもアウフヘーベンしてしまうところにある。現代社会の特徴は人々が記号を消費している点だとボードリヤールは述べた。これに感銘を受けた堤清二は、記号のない無印良品を創業した。しかし資本主義は、記号がないということさえも一つの記号にしてしまったのだ。システムに反逆するヒッピーが親しんだヨガや座禅さえも、いまやビジネスパーソンがビジネスに役立つからと趣味に取り入れ、それらは産業化している。

資本主義システムからみれば、むしろ自分にたてつく反逆者こそが、自身を肥大化させる糧になっているのである。資本主義システムは弁証法を体現している。このような強力なシステムに終わりがくる日はあるのだろうか。近頃よく言われている「脱成長論」さえもおそらく資本主義は成長の要素にするだろう。

 

このように、『ファスト教養』は現代の逆説の一つの現象として読み解くことができ、社会学的に価値ある一作となっている。