ぼっーとすることの地位の低さについて

床に寝転んでぼっーとしていると、暇なんかって聞かれる。暇といえば暇だが、暇だからぼっーとしているわけではない。ぼっーとしたいからぼっーとしているのだ。

ぼっーとすることはなんでこんなに地位が低いのだろう。現代社会は、とにかくやることが詰まっている、スケジュールが埋まっていることがよしとされている。それらを効率よくこなしていくことがよいことで、コスパだとかタムパだとかいう言葉が当たり前に使われている。大学生になったらみんな手帳を持ち始めて、予定が埋まっていることはリアルが充実していることだと思われていた。だから、それとは対極にあるぼっーとすることは地位が低いのだろう。

ぼっーとしていると暇だとみなされ、どっか行こうやとか暇ならこれしといてと言われる。ぼっーとしている時間は他者に搾取される。みんながスケジュールを詰め詰めにするのも、もしかしたら他者に自分の時間を、あるいは人生を搾取されるのを恐れているからかもしれない。

それにしても、コスパとかタムパをみんな重視するのに、なぜ活字離れが進むのだろうか。大学生が本を読まないことが問題になっている。読書ほどコスパのいいものはないのに。ライブに行くにしろ、スポーツ観戦にしろ、趣味はお金がかかる。でも、読書は図書館の本を借りさえすれば何千円の本がタダで読めるのだ。国や自治体は、本に関しては税金を使ってタダで読めるようにしてくれている。こんなにコスパのいいことがあるだろうか。本を読めば、他人の人生や思考、あるいは空想の世界を追体験できる。決して自分ができないような経験や考えつかないことをタダで経験できるのだ。なぜ活字離れが進むのか全く理解できない。

自分が今作るサウナは売るために作っている。岡靖知という画家がヤフオクで絵を出品していて、旧ツイッターで宣伝しているそうだ。それならと、自分はインスタグラムで宣伝しようと思ってインスタをダウンロードした。インスタでサウナを検索してみると、半分は宣伝や広告で、半分は自分を見てーという承認欲求画像だった。なんだか息苦しくなってすぐにアンインストールした。

サウナのイメージってほんとにガラリと変わってしまったな。ほんの数年前まで、おっさんの汗滴る汚い空間だったのが、デトックスしてととのうおしゃれな空間になった。それ自体はべつにいいのだが、昔はおっさんがサウナでダラダラぼけっーとしていたのが、今ではととのって新しいアイデアを生み出すみたいな、これまたなんだか逆に息苦しい感じ。サウナで会議するにしても貸し切ってするとかうまく棲み分けてほしいもんだ