日本屈指の総合小説 『邪宗門』

 

 2週間かけて高橋和巳の『邪宗門』を読み終わった。

 

 

数年前に新聞記事で『邪宗門』という小説の存在を知ったが、そのおどろおどろしいタイトルの響きから勝手に超難解な小説というイメージを抱き、興味はあったものの敬遠していた。今回、なんのきっかけだったか忘れてしまったが、ふと読みたいなと思って手にとった。小説にしろ、映画にしろ、本当に面白い作品に出会うと、先を早く知りたいと思うと同時に、永遠に終わりが来ないでくれというアンビバレントな思いを抱くものだが、この作品はそれをこれまでで一番強く感じた。いやぁ一言、すごい。本当にすごい小説。すさまじい作品に出会うと本当に、その作品に対する感想が「あぁ…」という感嘆や「すごい」というシンプルな一言になってしまう。そして読み終わった後もずっと余韻が心を支配し、何も手につかなくなってしまう。

 

 

村上春樹はずっと「総合小説」を書きたいと思っていて、総合小説の例として『カラマーゾフの兄弟』を挙げている。『カラマーゾフの兄弟』は、ミステリー小説でもあるし、恋愛小説でもあるし、宗教的な小説でもある。さまざまなジャンルの要素を含んでいるから、村上春樹は総合小説と呼んでいる。最近の小説でいうと、劉慈欣の『三体』も総合小説だと思う。総合小説となると、さまざまな要素を含む小説になるので、どうしても物語が壮大になる。その世界を支えるためには、作家自身の器が相当大きくないと書けないようだ。ドストエフスキーも劉慈欣も、そして村上春樹も世界的な作家だから、そういう物語を書けるのだろう。高橋和巳の『邪宗門』は総合小説と呼ばれるにふさわしい大作だと思う。読む前のイメージとは違って、読みづらさは全くなかった。決して読みやすいわけではないけれど、哲学書のように難解な論理や言い回しがあるわけではない。

 

 

邪宗門』は、ひのもと救霊会という宗教団体を扱った小説で、100万の信徒を抱える最盛の時期を迎えているところから物語が始まって、没落を迎えるまでを扱う。時期としてはおそらく1930年あたりから戦後まで。

 

邪宗とはもちろん、ひのもと救霊会のことを指しているわけだが、この宗教団体がなぜ邪宗なのか、物語の最終盤を迎えるまで全く分からなかった。むしろ、本当に理想的な宗教組織だと思いながら読み進めた。まず、この宗教の教主である行徳仁二郎はものすごく柔らかく、組織を率いるリーダーとして完璧だと思う。独裁ではなく、幹部らとコミュニケーションをとり、組織を運営していく。偉ぶるのではなく、常に信徒とともにある。必然、組織としてのありかたも理想で、信徒は決して裕福ではないが、ともに支え合い、宗教的な規律も守り、とても平和に暮らしている。

 

開祖である「まさ」は国家や民衆に虐げられ不幸な生活を送るなかで突然神がかり的な人物になってひのもと救霊会を開くわけで、その教えの中にはまさの怨念が込められ、後にこれがひのもと救霊会を邪宗に変化させるわけだが、仁二郎の時代では組織としては国家や民衆に反逆するわけではなく、「国は国、われわれはわれわれ」としながらも、教えを柔軟に変更し国家に逆らわないようにしている。ひのもと救霊会の本部が置かれる神部では、地域の企業を援助するなど、地域に受け入れられた活動を実践している。また、あの時代には絶対にありえない男女平等を謳い、女性の人格を尊重するなど時代を先取りしているところもこの組織の魅力である。日本では現代になってやっとこさ制度として男女平等を謳うようになったものの、森や麻生などの政治家をはじめとして世の中の多くの男性はいまだに女性を見下している。ひのもと救霊会は単に観念ではなく、実践的な意味で女性の地位を守っている。この点だけ見ても、この宗教がどれほど価値のある組織かよく分かる。

 

自分は前々から、組織そのものについてずっと考えている。たとえば、なぜ宗教組織はみな平和を謳うのに戦争を行うのか?戦国時代では延暦寺は僧兵を組織し織田信長と戦ったし、キリスト教は十字軍を持ったし、イスラム教は聖戦と称して戦いを繰り返した。組織は、何らかの目的のもとで組織されるわけだが、組織そのものから生れる何かが本来の目的を踏みにじってしまうことがあるのだ。このような矛盾がなぜ生まれるのか、組織とは一体何なのか、ずっと考えている。『邪宗門』はひのもと救霊会という組織を扱った小説であり、この組織をとおして組織というものの生態について深く考えることができた。この小説は組織論の教科書でもある。戦中における宗教組織としての運営の難しさが巧みに描かれていて読み応えがある。ひのもと救霊会は100万の信徒を抱えるがゆえに影響力がある。国家や警察はそれを抑え込むためにでっちあげの嘘を並べて迫害する。こういう状況のなかで、ひのもと救霊会にある日、京大出の若者が入信させてほしいと頼み込んでくる。救霊会の会議で、ある男性幹部は「彼はスパイかもしれない、断るべきだ」と言い、別の女性幹部は「それではすべての人間を平等に受け入れ救済するという教義に反する」と反論する。なるほど、組織というものは常に理念と現実のあいだで揺れるのだ。組織に矛盾が生じ破綻してしまうのも、現実との絶え間ない軋轢に対処していくなかで少しずつ理念を踏みにじっていく必要が生じるからだろう。

 

 

この小説は組織論の教科書として読めるが、悲しい恋愛小説としても読めた。単なる組織の話なら、読み終わった後こんなに胸に余韻が残るはずがない。教主行徳仁二郎の長女阿礼と二女阿貴、主人公の一人であり仁二郎の後を継いで教主になる千葉潔の恋愛。

恋愛小説として『邪宗門』を読むと、運命に翻弄される三人が本当にかわいそうになる。いや、果たして千葉潔は彼女たちのいずれかと報われたいと思っていたのかは定かではない。彼の内面描写の記述はほとんどないから。千葉潔が教団に拾われたころは二女阿貴と結ばれるのかな、どうなんだろうなという感じだった。彼はある日、組織のある幹部による依頼を遂行したことで警察に連行され、その後は戦争に派遣され残虐な殺しに関わる。それは彼の恋愛そして人生観に大きな影響を与えただろう。長女阿礼も、父仁二郎が警察に不当拘束されているあいだ、代わりに教団運営し自らの青春を無為に過ごすことになる。阿礼が、教団を守るために不本意ながらも教団から独立した宗教組織の教主の息子のもとへ嫁ぎ、今度は二女の阿貴が代わりを担うことになり阿貴も組織運営に翻弄され自らの青春を謳歌できなくなる。ここらへんは読んでいて胸が痛くなった。教団がなければそもそも阿礼も阿貴も、千葉潔に出会うことがなかったわけだが、教団の運営に振り回されどちらの恋も結局は実らなかった。阿礼はまだ、千葉潔と肉体的には結ばれ一晩の恋を成就することができただけよかったかもしれない。阿貴は本当にかわいそうだ。彼女が幸せだったのは、幼いころ、教団に拾われたころの千葉といっしょに過ごしたほんの一時だけだったわけだから。

 

 

物語の最終盤、千葉潔が教主になって、ひのもと救霊会が本当の意味で邪宗になった過程を読んでいると、これはオウム真理教のことを書いているのではないかと錯覚した。個人的にはあの一件がなければひのもと救霊会が邪宗になることを踏みとどまれていたような気がする。戦争が終わって、ひのもと救霊会のある幹部の家に、警察と進駐軍が突然訪問するのだが、幹部の妻が勘違いして「泥棒ー!」と叫ぶ。それを聞いた息子が斧で警察を誤って殺害してしまう。息子を撃ち殺した進駐軍の兵も殺害してしまったのだが、この一件を隠蔽するための工作をとおして、ひのもと救霊会が本格的に邪宗化していく。

 

この件を読んでいて、オウム真理教を思い出した。NHKの特集で、オウムが本格的に殺人集団になっていったのは、ある信者が修行中に奇行を繰り返していたので、幹部がその信者を水風呂に押しつけたら誤って殺してしまったことがきっかけだったという証言を観た。麻原は死んだ信者をドラム缶で焼却するよう指示し事故を隠蔽したわけだが、個人的には、麻原はこの事実を合理的に処理するために「ポア」という概念を作りだしたのだと思う。殺すことはすなわち救済することなのだ。麻原がヨガ団体を作った当初は大量殺人によって国家を転覆させようなんてことは考えてなかったと思う。人の上に立ちたいとか、支配したいとかそういうことは考えていたかもしれないけれど、さすがに殺人までは考えていなかったんじゃないか。萌芽はあったかもしれないが、それは花開いていたわけじゃない。しかし、組織が大きくなっていって、修行中にああいう事故が起こってしまって、麻原はおそらく組織を維持するためにポアという概念を思いついた。ポアという概念がなければ、殺人が起こったということで、組織が瓦解してしまう。だからこそ殺人は救済なのだとこじつけた。そこからもうひきかえせない闇に足を踏み入れてしまったのだと思う。

 

ひのもと救霊会にも「世直し」という思想があって、これは開祖まさの教義である。

最後の教主によって世直しが行われ国家は転覆し理想的な共同社会が実現される。千葉潔は最後の教主として国家を世直ししようとしたが、国家に味方した進駐軍の圧倒的な兵力によって返り討ちにされる。それによって教団の信者の多くが無駄に死んだ。そして、ひのもと救霊会は完全に破滅した。ひのもと救霊会はたしかに邪宗としての萌芽を持っていたわけだが、仁二郎の教主時代、血で血を洗うようなことは決してなく、極めて平和な団体だった。しかし、ひのもと救霊会は戦中国家や警察に迫害され、戦後本当の民主主義が実現されようとしているなかで、ひのもと救霊会のような理想的な共同社会が実現されるチャンスがあるにもかかわらず、千葉潔率いる救霊会は暴力集団になってしまった。

 

たくさんの印象的なシーンが物語のなかにある。その一つは教団壊滅後、千葉潔が貧民窟で仲間の信徒とともに絶食し息絶えるシーンだ。教団の教えでは、死は救済である。千葉潔は教主の地位に就きながらも、神は信じなかった。信仰心のかけらもなかったのだ。彼は自らの才覚と阿礼の思惑によって教主の地位に就いた。その彼が最後、教団の教えを信仰したのだ。死の間際、彼は顎を震わせ何かを言おうとしたのだが、その言葉は吐き出されず絶命した。一体何を言おうとしたのだろうか。印象深いシーンである。

 

 

あと数日で自分は20代を終える。20代の最後にすさまじい物語を読めて幸せである。