一般化の恐ろしさについて

 

 今日、解体の仕事で出た鉄くずを買い取ってもらいに行った。

 鉄くず屋は中国人が運営していた。中国人はすごく丁寧な対応をする、ずいぶん腰の低い人で好印象を持った。

 中国人の対応が良かったせいか、帰りは餃子王将に寄った。そこで餃子を食べながら一般化の恐ろしさを想った。

 

 この前は別の鉄くず屋に持っていったのだが、そこの鉄くず屋も中国人で、今日の中国人とは正反対の、ものすごく愛想が悪くて、「用が済んだらさっさと帰れ」みたいな雰囲気をぷんぷん醸し出す嫌なやつだった。他よりも鉄を高く買い取ってくれるから持っていったのだが、嫌なやつなので「ここには二度と持っていくか」と思った。

 

 この前中国人にそういう態度をとられたので、自分のなかの中国人に対するイメージはかなり悪く、これまで他の人が語る中国人のイメージと相まって、中国人=クソという固定観念があった。しかし今日の中国人の対応によって、その固定観念は覆されたのである。

 

 餃子を食べながら、一般化の恐ろしさを想った。

 よくよく考えれば、中国人といったって10億人もいれば、いいやつもいれば悪いやつもいるのだ。そんなことは小学生でも分かる。それなのに、自分が会った数少ない中国人のイメージを、中国人すべてに当てはめていたのだ。これは実に恐ろしいことである。

 

 そんなことを反省していると、卒論発表会のことを思い出した。

 自分の卒論は教育についてのもので、不登校は必ずしも悪くないと書いたのだが、発表会のときに教授に「子どもは学校に通うべきでしょうか?それとも通わなくてもいいのでしょうか?」と訊かれた。

 そのときはうまく答えられなかったのだが、後々この問いについて考えていると、そもそも問いの立て方がおかしいことに気づいた。

 

 子どもといったって、いろんな子どもがいるのだ。

 学校は楽しいから行きたいという子どももいれば、学校に行くとロボットになるから行かないという子もいる。つまらないけど通うべきだと思っている子どももいるだろうし、学校のことを思うとおなかが痛くなるから行けないという子もいる。

 そういったさまざまな考えや事情を抱えている子どもを「子ども」と一般化して、「子どもは学校に通うべきか、通わなくてよいか」と問うのはおかしいことではないか。この問いはそもそもナンセンスなのである。

 

 一般化することによって、われわれは物事の理解を容易にしているわけだが、一般化することによって逆に物事が理解されず軋轢を生むことも多々ある。「男っていつもそう」とか「女はやっぱりバカだ」というような一般化がそうだ。

 

 一般化というのは無意識にやってしまうことだが、一般化された物事の一つ一つにはそれぞれの様相があることを念頭に置いておくことが大事だと餃子を食べながら思った。