責任とか才能の発露についての雑感

今自分は人んちのゴミの山を片付け、空いた日は自分の会社を登記している古民家を解体している。ゴミの山をつくったじじいはまさにクソジジイとでも呼ぶしかないような糞で、そいつのせいで家族が迷惑してて家族がお金を出して自分がその処分を仕事としてやっている。古民家のほうは、いっしょに会社をたちあげた仲間が所有している家で、その家がある住所を会社所在地として登記している。家はもう解体しないといけないほど朽ちているから解体しないといけなくて、しかし解体費用なんてない。だからDIYで解体しているのだが、仲間に連絡しても無視され、仕方がないから自分一人で解体している。その仲間は貸した数十万を返済しないし、自分の家なのに解体もしない。家は放置したまま県外に出て帰ってもこない。別に自分が解体しないといけないわけではないのだが、会社の登記をしているし、屋根瓦が落ちてきて、自分も家にやってくる人も危ないので解体することにした。

 

責任について

解体はもちろん自己責任でやっているわけで、ケガしたりすれば当然自分の責任になる。それは当たり前のことだけど、責任ってなんだとついかんがえてしまうんだよな。

というのも、家を解体しないといけないという現状があって、解体を業者に頼む費用もない、仲間は何もする気がない、じゃあどうするか自分が一人でやるしかないという選択肢しかない状況で解体に着手しているわけで、こういうのを自己責任と呼んでいいのかなと思うのだ。

うまく表現できないが、自分の意志で選択するから、そこに責任が発生するわけで、他に選択肢がない状況で選択した場合に責任というのは発生するのか?もちろん、解体をやろうと自分は意志した、がより適切な表現をするなら「せざるを得なかった」。

物事には流れがあって、その流れのなかで、流れに抗えない選択を選ばされたとき、責任は発生するのか。もちろん制度とか法体系のなかでは発生する。しかし、そうしたシステムを措いて考えてみたとき責任は発生するのか。

自分は、國分功一郎の意志や責任に関する著作を念頭に置いて、この責任の問題を考えているのだが、今自分がこういう状況に置かれていることで、國分の話がリアルに考えられる。

犯罪者が犯罪を犯して、その罪や責任が問われるとき、自分の行為と責任が結びつかないことがよくある。自分のやった行為が犯罪行為に当たるから逮捕されるわけだが、その行為が物事の流れのなかで他に選択肢がない状況で行われたとき責任は発生するのか。とても難しい問題である。

こういうのはなんにせよまず行為が犯罪だから逮捕され、その後そのときの状況や行為者の心身を鑑みて裁判が行われていくのだろうが、そういうのもべつにして、行為者がその行為と責任をうまくつなげることができるのだろうか。國分の本のなかで、放火犯が自分の行為と責任をうまく結びつけられないから何度も放火する話が出てくる。その行為者は國分の講演会に参加して、國分の責任を一旦留保する話を聞いて初めて、自分の行為と責任を結び付けられた。

こういうのを知ると、世の中の犯罪者とか、あるいは家をゴミの山にするクソジジイやお金を返さないし連絡も無視する仲間を責められないなぁと思いつつ、それでもやっぱり腹が立つ。

責任とか意志といった概念は、社会を成り立たせるために必要な概念で、社会そのものが虚構である以上責任や意志も虚構で、だからこそ人間の行為と責任のあいだに乖離が生じるのだろう。

 

才能の発露について

クソジジイは、どこかの店や家のゴミを片付ける仕事を以前やっていて、そこから運び出したゴミを処分するのではなく、自分の実家に置いたままにしていたから家がゴミだらけになった。それゆえに多種多様なゴミが置いてある。それを今自分がせっせと片付けている。

多種多様なゴミが置いてあるからこそ、その分自分にはさまざまな知識が身についた。ゴミを片付けるまで、自分はテレビの処分の仕方も知らなかった。家電リサイクル法という法律があって、テレビ冷蔵庫洗濯機エアコンは家電量販店か指定場所まで運ぶかしないといけない。家電量販店よりも、郵便局で金を振り込んで指定場所に運ぶ方が安くすむ。エアコンに関しては引き取ってくれる鉄くずやがあるので、処分代が浮くどころかむしろ収入になる。しかし、鉄くず屋だと環境に悪影響を与えるフロンをばらまくことになるので、倫理的にはちゃんと処分したほうがいい。こういう知識は全部、片付けの仕事で手に入れた。

家の解体も、自分ひとりでやることになったからこそ、どうやったら安全に解体できるか頭をかなり使う。解体しているわけだから、家の構造をつぶさに見ることができ勉強になる。

 

クソジジイも仲間も、人間としてはクズで関わりたくないが、結果的にクソジジイと仲間のおかげで、たくさんの知識と技術と自信が身についた。

だから、自分を成長させるには自分が害悪だと思う人間とつき合ってみるのも一つの手かもしれない。害悪とは関わりたくないのが普通なので難しいところだが。

とはいえ、岡本太郎がいうように、二つの道で迷ったら苦しいほうを選べというのは、そういうことなんだろうと思う。苦しい道のほうが成長できるからだ。

自分は成長信者じゃないし、物事の流れのなかでゴミの片付けや解体をやることになったので選んだわけじゃないが、結果的に成長できたので岡本太郎の言うことは間違いじゃないなと思う。

誰だって苦しみたくはないし、嫌なことはやりたくないが、ぬるま湯につかっていると自分の成長にはつながらないなぁと思う。