ゴミの山を片付けながら思うこと

仕事でゴミの山を片付けている。テレビとかネットでゴミ屋敷を見ることがあるが、あんなのは大したことないと思えるほどの量。さらに仕分けがあまりにも大変で辟易する。一つの袋のなかに、土や粉々になったガラス、カビの生えた靴、中身の入っているビンやペットボトルがごちゃ混ぜに入れてある。うんざりする。

ゴミの山を見ていると、富山市から見た立山連峰を想起する。自分の背丈を遥かに超えたゴミの山が部屋に屹立している。

最近、いろいろとうんざりしてきて、人類は早く絶滅したらいいのになぁと強く思う。SDGsとか焼け石に水なのに、みんなやってる感が欲しいんだろうな。どうせどうにもならないことはみんな分かっていて、でも焼け石に水かけてれば言い訳はできるのだ。茶番も甚だしい。それでも環境保全に尽力している人はたくさんいるはずで、でもゴミの立山連峰を眺めていると、どんなにたくさんの人が頑張っても、クズ一人がすべて台無しにしてしまうのだ。あのクソジジイは文字通りのクズである。

おれは結局何をやってるんだろうなぁという気分になる。仕分けして、燃えるゴミは可燃ゴミの処理場に運び、燃えないゴミは不燃ゴミの処理場に運ぶ。燃えるゴミは灰になり埋め立て地へ行き、燃えないゴミは一部がリサイクルされ、残りは埋め立て地へ行く。毎日毎日どれだけのゴミを埋めるのだろう。そしてまた、ゴミになる商品が作られ、スーパーやドラッグストア、ホームセンターに所狭しと並べられるのだ。うんざりする。一体人類は何がしたいのだろう。

クソジジイは自分の家のゴミも捨てていて、クソジジイの若いころの、ジジイとその妻と子どもが海で遊んでいる写真もゴミ袋の中から出てきた。あんなにどうしようもないクズでも昔は結婚できたのか、あるいは若いころはマシだったのか。おれから見れば、クソジジイは地球にとっても社会にとっても害悪だから早く死ねばいいのにと思うが、妻や子どもにとっては良き夫であり父だったのだろうか。別の袋からは、借金返済の督促状も入っていた。督促状の封は空いておらず、そのままゴミ袋に入れてあった。ジジイのプライバシーなんてどうでもいいから開けてみたところ、何百万もの借金を重ね、しかも踏み倒しているようだった。5年前の通知だがどうなったのだろう。たまにこそこそとやってくるし、しかもハスラーの新車に乗っている。無職のくせにどういう金回りをしているのだろうか。

 

自分が片付けている建物の、横の部屋は塾をやっていて、さすがにジジイはそっちの部屋にはゴミを置いていないが、トイレはゴミのある部屋にあるので、生徒は日々ゴミの立山連峰を見ながらトイレに向かっている。

自分は教育学をやっていたので、その教育的効果について考えるのだが、悪くないと思うんだよな。というのも、世の中にはこういうことをする大人がいるということを子どものときに知っておくことはいいことだと思うのだ。少なくとも古文単語や英単語を覚えるよりは。

池袋みたいなクソみたい大人が集まるところならともかく、田舎はだいたいがまともでつまらない大人ばかりで、学校でもまともなことしか教えないのだから、世の中のことはちっとも分かりゃしない。テレビではいつもクソみたい政治家のスキャンダルを報じているが、それはやっぱりテレビの中の出来事だからリアルさがない。

こういう田舎者が進学や就職で都会に出ると、クソみたいビジネスと、クソみたいな宗教にカモにされてしまうのだ。これは自分が経験したことだからよく分かる。疑うことを知らないから、統一教会にも共産党にもカモにされ、すぐに個人情報を教えてしまった。大学に相談しても、教えてしまったのならどうしようもできないと、クソの役にも立たない回答をされただけだった。

ということで、結局は自己防衛するしかないのだ。そこで一番重要なのは疑うことだ。世の中にはどうしようもないクズな大人がいるということを知っておくこと、これだけで自己防衛力は上がるのだ。そういう意味で、ゴミの立山連峰は非常に教育的効果がある、塾で習うどんな知識よりも。

 

なんにせよ、疲れたな。世界からどんどん意味が失われてきている。いろんなことが茶番に見える。もちろん、いろいろと頑張っている人に「そんなのは焼け石に水だよ」なんて水をさすことはしないけど。嫌われたくないし。でも、顔には出てしまうから、うんざりした顔をしてしまうから、そういうわけであまり熱い人とは関わりたくない。