最近読んだ本の感想

國分功一郎『目的への抵抗』

東大で高校生や大学生への哲学講座が行われ、それを収録したもの。若者への講座ということで、難しい哲学用語はほとんどなく読みやすい。とはいえ、扱っている内容自体は決してやさしくはない。

目的は自由を抑圧する。だから、自由であるためには目的に抵抗しないといけない。

資本主義社会は目的に対して高度に合理的な社会で、無駄を徹底的に嫌う。私たちを記号の消費へと向かわせる。

國分は、「贅沢」と「消費」を区別する。私たちは、食事をするにしても、単に栄養を取るのではなく、食事そのものを楽しむ。そこには人間らしさ、豊かさがある。これはひとつの贅沢である。

一方で、一昔前に流行ったタピオカドリンクなど、インスタにあげるためにタピオカを購入するというのは、贅沢ではなく消費である。タピオカそのものを楽しむ、味わうのではなく、インスタにアップするという目的のために購入するのならば、それは記号の消費であり、消費社会に踊らされている。

國分は、消費ではなく贅沢にこそ自由があるのではないかという。目的なき手段、そのもの自体を楽しむ行為、それは子どもの砂場遊びのような純粋な行為であり、だからこそ自由なのだ。

とはいえ、生活するうえで目的が消え去ることはないともいう。そして、たとえば國分自身が関わった都道328号の運動を例にして、目的ある行為のなかにも充実感があると話す。

この本は、國分功一郎という哲学者の思考の足跡を辿れるものであって、こうだ!という結論があるわけではない。だから、知識を得ておしまいではなく、読者もいっしょに考えることが重要である。

 

最近、自分は、意志というのはお金とある点において同じではないかと考えている。私たちは、特定の紙切れや銅やアルミなどに対して、これは1000円とか500円というように取り決めをしてそれを使っている。でもそれはもちろん紙切れであり鉄くずであって、集団で幻想を抱いているからそれは1000円や500円の価値を持つのである。

意志もこれと同じで、意志というのも集団の幻想にすぎないのではないか、そういうふうに思っている。私たちの行為は自分の意志によって行われていると私たちは思っているけど、本当は違うのではないか。

こんなふうに思うのは、自分のこれまでの人生を振り返ってみるに、要所要所での行為の決定が、自分の意志というよりも、なにか別の主体によって遂行されていた感覚があるからだ。こういう感覚が生活の全てに及んでくると、おそらく統合失調症と診断されると思う。でもむしろ、統合失調症の状態が本来的なものではないかと思うのだ。

國分は中動態という言語構造についても研究している。中動態は、能動態や受動態と違って行為の主体を問題にしない。だから、統合失調症と中動態は相性がいい。心理学者のジュリアン・ジェインズは、古代ギリシア人は神々の声をきいて行為していたと述べている。それはつまり、行為の主体が自分ではなく神々ということであり、今の観点からいえば古代ギリシア人はみんな統合失調症だったということになる。

だから古代ギリシアには意志という概念はなかったはずで、時代がすすみ中動態が廃れ能動/受動が一般になり、それと同時に意志の概念も生まれた。神々の声は聞こえなくなり、行為の主体は自己になった。

それでなんでこういうことを書いているかというと、行為の主体が自己でなかったら、自由というものは存在するのかということを疑問に思ったからだ。ソクラテスはどこかで、自分がなにかをするとき、その行為が自分ではなく他人によって指示されたものであるなら、それは奴隷であると述べていた。それなら古代ギリシア人は全員奴隷だということになる。自分ではなく、神々の声を聞いて行為していたのだから。しかし、そもそも意志という概念が共同幻想であるならば、わたしたちが意志によって行為しているときそれもまた自由といえるのだろうか。よく分からない。

それで、國分の都道での運動のように、目的が明確にある運動であってもそこに充実感を見出すことはできる。この件を読んでいて、「やれやれ」だなと自分は思った。やれやれといえば空条承太郎村上春樹の小説の主人公を思い出すのだが、考えてみれば、どっちも大きな流れに巻き込まれてやれやれと思っている。承太郎はDIOを倒すという目的に巻き込まれ仲間と旅をするし、村上春樹の小説の主人公も、意図しない流れに巻き込まれていろいろと動く羽目になる。で、自分も、この流れのようなものを感じ、その流れが何に向かって進んでいるか分からないけれど、流れ流れて生きている感じがある。それは自分の意志とはべつものだけど、わりと充実感はある。承太郎も、村上小説の主人公も、やれやれと言いながらも充実感は感じているんじゃないだろうか。そして、人生とは本来そういうものなんじゃないかと思うのだ。こういうのが、意志とか自由とか目的とどうつながるのか分からないが。

 

マーシャ・ガッセン『完全なる証明』

数学上の難問であるポアンカレ予想を解決したグレゴリー・ペレルマンを描いている。ペレルマンがどんな子どもでどういう人生を送ってきて、ポアンカレ予想を解決したのか。著者が、ペレルマンの周囲の人間にインタビューしながら、なぜ懸賞金を受け取らなかったのか、ポアンカレ予想を解決した後、なぜ数学界を去りきのこ狩りをするため山に消えていったのか考察している。

ペレルマンは、変わり者ひしめく数学の世界でも特に変わり者なので、ペレルマンの行方を知っている者はほぼいない。だから著者はペレルマンに一度も会ったことがない。つまり著者が書いていることはすべて憶測である。

自分は、ペレルマンにもポアンカレ予想にも興味があるからこうして本書を手に取り読んだ。ペレルマンという天才が何を考え、どのように予想を解決したか、どんな人生を歩んだらそうなれるのか知るヒントが本書にはあるはずで、そういう意味で本書は価値ある一冊。

でもさぁ、自分の知らないところで、まわりにインタビューしているとはいえ憶測でいろいろ書かれるって嫌だよなぁ。一度も会ったことのない人間が自分の了解なくいろいろと書き散らすってどうなのよ。もちろんペレルマンは自分のことを書くことは絶対に了承しないはずで、でも著者はネタとしては恰好だし、なにより人類の進歩になる一冊だと思っているから書いている。でも、たとえ人類の進歩になるとしても、個人の感情を無視するのはどうなのか。本の収益はどうしたんだろう、もちろん懸賞金を受け取らないペレルマンのことだから収益は絶対に受け取っていないだろう。ポアンカレ予想を題材にしたNHKの番組で、ペレルマンの子どもの頃の恩師が、電話でペレルマンに「社会の進歩に貢献しないといけない」と話していた。ペレルマンの自宅に手紙も持っていったが、ペレルマンに無視され、そのうち彼は電話にもでなくなった。これを観てて、ポアンカレ予想を解決してもまだ貢献を求められるのかと他人事ながら辟易したし、偉大なことをするとそっとしておいてほしくてもハイエナのようにいろんな人間がよってくるんだなぁとうんざりした。

 

石田衣良池袋ウエストゲートパーク』シリーズ

めちゃくちゃおもしろい。

ドラマでやっていたのは知っていたけど観てなくて、アニメをちょろっと観たけどそれは面白くなくて、でも試しに小説を読んでみたらハマった。

どこがいいんだろうな、疾走感のある文体?エッジの効いた皮肉?解決困難なトラブルを見事にシュートする鮮やかな腕前?まぁ全部だな。

一冊の本に4つのエピソードが収録されていて、現在で18冊でているのかな、関連本も含めると20冊は超えている。びっくりなんだが、すべてのエピソードが面白い。打率10割、イチローの目ん玉が飛び出るレベル。

果物屋の店番真島誠は、池袋のトラブルシューターで、ガキの頃は警察の世話になること多数、今は果物屋で低年収、生まれてからずっと底辺を生きている。でも、感覚がものすごくまともなんだよな、なにより自分の軸を持っている。だからこそ、いろんな人間が誠のもとを訪れ相談するわけだ。なぁ、人間ほんとうに必要なのは金でもなければ地位でもないよな。

店番をしているときも、トラブルの解決策をひねり出しているときも、クラシックを聴く。自分はクラシックをほとんど聴かないから分からないが、誠の音楽に関する感性のすばらしさはわかる。そして、誠はストリート雑誌の名物コラムニストだけあって、言葉に力がある。

おれは機械や数字より、人間の勘と感を信じる。なにせ、それだけで池袋のストリートを生き抜いてきたからな。間違わないものより、ときどき間違うもののほうが信頼できるなんておかしな話だが、そいつが一瞬先がわからない暗闇を生き延びる秘訣なんだ。『池袋ウエストゲートパーク 憎悪のパレード』 P75

 

おとなしいおれたち日本人ひとりひとりのなかには、ちいさな正義の火種が埋まっていて、大好きな正義が傷つけられた瞬間、いっせいに爆発するようになっている。不倫、覚醒剤、違法ギャンブル、DVや児童虐待。理由はなんでもいいのだ。有名人や名も知らぬ誰かがやらかした不正に、徹底的な正義の断罪をおこなう。ネットができてから、おれたちは正義の力を行使するのに酔うようになった。誰もが指先ひとつで裁判官になれる時代なのだから。おれ自身はSNSに近づく気はない。世のなか怖いのは少数の悪ではなく、膨大な数の気まぐれな正義に決まっているからな。『池袋ウエストゲートパーク 裏切りのホワイトカード』 P32

 

若いころの遊びは重要だ。勉強や仕事ばかりしていると、事務次官や県知事になってから満たされなかった青春への復讐をするようになる。セクハラや買春といった地位のある人間にとっての自殺行為でな。人生の集大成の時期に、押さえつけていた内なる若者に破滅させられるのだ『池袋ウエストゲートパーク 七つの試練』P184

 

いやはや、すばらしい。こういうのを味わうためにも、小説はオススメ。もちろん、本を読み終わったら、ドラマのほうも観てみようと思う。

世のなか、まともな大人がどんどん減ってきているような気がする。誠は社会の底辺にいるかもしれないが、持っている感覚は誰よりもまともである。そうした感覚を失わないためにも、この本を読むこと勧めたい。