27歳の僕がガラケーにこだわるたった一つの理由

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 現在27歳の僕はいまだにガラケーを使い続けている。それも一番安い料金で契約しているので、ネットにはつながらないし、メールもできない(ショートメールはできる)。

 街中を歩いていても、電車に乗っていても、ガラケーを使っている人は見当たらない。たまに、「あ、ガラケーを使ってる人がいる!」と思っても、年配の人ばかり。僕みたいな、若者でガラケーを使い続けている人は絶滅危惧種なのだろう。

 

 今から10年前、僕が高校生の頃、周りの友達はみな、高校の進学祝いに親からガラケーを買い与えられていた。僕の家はべつに貧乏ではなかったけれども、特に欲しいとも思わなかったので、「まわりの友達はみんな買ってもらっているから自分にも買って」という子どもお得意の論理を親にふりかざすこともなかった。

 さすがに大学に入るころには親にガラケーを買ってもらい、それからスマホに乗りかえることもなくガラケーを使い続けている。僕が大学に入ったころ周りはまだガラケー持ちばかりだったけれども、テクノロジーの波はガラケーを押し流し、今では老若男女がスマホである。僕は常に時代の波に取り残されているようだ。まぁ時代の波に乗る気は一切ないけれども(乗れない人間の強がり)。

 

 そんな僕がガラケーにこだわり続ける理由はたった一つで、それは自分の時間を失いたくないからである

 

 時代の波に乗り遅れている僕といえども、さすがにインターネットは利用する。インターネットはとても便利だ。知りたい情報にすぐにアクセスできるし、面白いコンテンツが詰まっている。はてなブログも書ける。

 でも、目的もないのに、時間を無駄にしていると分かっているのに、だらだらとネットサーフィンしていることがよくある。メールやニュースをチェックするだけのはずが、「ちょっと米津玄師の『LOSER』聴きたいな、あ、ナスdの動画アップされてるから見ておこう」となって二時間も三時間もたっている。そのたびに、「あぁまたやってしまった」とものすごい自己嫌悪に陥る。

 

 僕は、自分の頭で物事について考えたり、想像したり、妄想したりする時間をとても楽しく感じる。特に外を散歩したり、車や電車に乗って流れゆく景色をぼっ~と見ているときに思考や妄想が弾む。目的地もないのに電車に乗って外の景色をただ眺めていることもある(定期を持っているから区間内であれば電車賃はただなのだ)。

 そんなひとときを至福の時間と思っている僕には、歩きスマホや、外の景色ではなくうつむいてスマホを見ているのはもったいなく感じる。個人の勝手だけど。

 ただ、僕はインターネットの魔力を知っている。だからもし、スマホを持っていたらたぶん僕もスマホの魔力に屈してずっとスマホとにらめっこしていると思う。僕はそれを非常に恐ろしく感じる。テクノロジーの提供する時間が自分の時間を締め出してしまうから。

 簡単に魔力に屈する僕が、スマホに自分の時間を奪われずにすむ方法は一つしかない。

 

 スマホを持たないことだ。これしかない。僕はスマホの魔力に屈したことは一度もない。当たり前だ、持ってないのだから。

 

 スマホがあればなぁと思うことはよくある。電話しかできないガラケーはやっぱり不便なのだ。

 それでも、天びんに「スマホが与えてくれる利便性」と「スマホが奪っていく時間」をかけたら、利便性よりも時間のほうが重かった。僕にとっては、利便性よりも自分の時間のほうが重みのある大切なものだった。

 

 僕はこれからも不便なガラケーを使い続けていくだろう。