考えるとは違和を感ずるということ

 自分の頭で考えよう。

 

 よく言われるけど、考えるって一体どういうことなんだろうか?一体何をどうしたら考えるという状態になるんだろう?

 自分の考える「考える」とは、常識に対して違和感を覚える状態をいう。「なにかおかしいんじゃないの?」という物事や常識に対するへんな感じ。むずむずする感じ。もごもごする感じ。こうした感じが自分の頭で考える第一歩となる。

 なんだっていい。例えば、多くの人は「どうしてこんなにあくせく働いているのにたったこれだけの給料しかもらえないんだろう」と思う。

「こんなに働いている」→「給料が少ない」→「おかしいんじゃないの?」

 では一体なにがおかしいのか。本当はもっと給料が高くてもいいはずだ、こう思う自分がいるとする。

では、なぜ給料が低いのか?

自分に能力が足りないからか

正当な評価がされていないからか

搾取する人間がいるからか etc

 

「おかしい」と思うその感じが種となる。そこに「問い」という水を与えてやると、その種が発芽する。問い続けると次第に成長して少しずつ自分なりの物の見方や考え方ができてくる。

自分なりの物の見方や考え方ができてくると、その文脈のなかで、社会で起こっていることやさまざまな常識をとらえなおすことができる。そのとらえかたが他の人と違えば違うほど「変わり者」と呼ばれ、極限まで達すると「天才」と呼ばれるようになる。

 だから、自分の頭でちゃんと考える人というのは集団から浮かざるをえないのだ。哲学者千葉雅也さんの『勉強の哲学』という本には、集団から浮く方法としての勉強法が書かれている。集団のノリから外れる=浮くことで、初めて考えることができているということになる。

 ということは、学校でやっていることは本当は「勉強ではない」のだ。知識をつめこんだり、問題を解いたりすることは考えるということではない。むしろ、学校は子どもたちを集団に順応させるために機能してきた以上、考えさせなくする場所が学校であるといえる。学校は、子どもたちにノリ方を教えはしても、ノリから外れる=考える方法は教えてこなかったのだ。

 だから、社会のいたるところで「そんなこと自分の頭で考えろ」という言葉が飛び交うのだ。もし、学校が考える力を身に着ける場所であるなら、ほとんどすべての子どもが学校に通うので考えることができるはずなのだ。でも、学校はそういう場所ではないので、「自分の頭で考えろ」という言葉が飛び交う。

 自分の頭で考えることは、本来はまったく大変なことではないはずだけど、学校というものが存在しているためにものすごく大変なことになってしまう。なんせ、義務教育で最低で9年、今ではほとんどが高校や大学に進学するから12~16年も考えない訓練をしていることになる。

本当に自分の頭で考えようと思うなら不登校になるのが一番なのである。