酒鬼薔薇事件の足跡

 今日は仕事で神戸市須磨区に行った。時間が少しあいたので、須磨の名谷をぶらぶらと歩いてみた。名谷駅は大きく、そのまわりは大丸など大きなショッピングモールがある。駅のまわりは区画整備された住宅街が広がっている。一個一個家がとてもきれいで、けっこうお金を持っている人たちがここには集まっているんだなと思った。

 酒鬼薔薇と名乗った少年の通っていた友が丘中学校もきれいで大きな学校だった。男児の首が置かれていたことなんて想像できないほどに。タンク山は神戸大から望めた。

 本当にここで凄惨な事件が起きたのかと訝しく思うほど事件の足跡は消えていた。でも一方で、これだけ合理的な空間は逆に人間の精神をゆがめてしまうことは簡単なことで、それゆえこの空間も事件を引き起こした一つの要因なのかもしれないとも思った。

 以前、筑波の学園都市に行ったとき、あまりに合理的な空間で居心地の悪さというか気持の悪さを覚えた。吐き気までしてきたのを思い出す。池上彰さんの本だったと思うが、彼の本で筑波だったか学園都市では自殺者が多いということが書かれていた。合理的で無駄のない空間に人間は耐えられないのだ。

 映画『マトリックス』でもそれについては言及されていて、マトリックスをつくったアーキテクチャ(第二部にでてくるおじいさん)は、最初完璧に合理的なマトリックスをつくったが人間はそれに拒否反応を示したので、直観プログラム(オラクルと呼ばれる預言者のおばあちゃん)を導入しランダムさを取り入れたとネオにしゃべっていた。

 学園都市ほどではないにせよ、須磨区名谷にも居心地の悪さを感じた。きれいで無駄がない。無駄が排除された空間というか、人間の持つ闇や影といった暗さを内包していない空間は人間の心に少しずつひずみをもたらしていくだろうと思う。

 酒鬼薔薇事件はいわば、合理的な空間から生み出された強力な「毒」だったのに、今日訪れたそこは完全に浄化された空間になっていた。しかし、人間がそこにいるかぎり、強力な「毒」が生まれる可能性は十分にある。

 今後も須磨に限らず日本は合理化されていくのだろうけど、人間の闇や影の部分を無視し続ければ日本のそこかしこに第二の酒鬼薔薇事件の萌芽が芽生えるだろうと名谷を歩いているなか思った。