教育とは何だろう

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昨日は、学校について書いたので今日は教育について。

 

 教育とは何かと聞かれたら、どう答えますか?

 

 教育とは、先生が学校で国語や算数を教えたり、親が家でしつけをしたりすることというような感じでしょうか。

 ブリタニカ国際百科事典では、教え育てること、知識、技術などを教え授けること、人を導いて善良な人間とすること、とあります。

 

 子どもが望ましい大人になるよう、大人が教え育てることが教育といえそうです。

 

 昨日、俳優の伊勢谷さんや東大のプロジェクトを紹介しました。

 

matsudama.hatenablog.com

 

 ぼくたちの教育に対するイメージは、自分たちの経験をふまえてみても、大人が子どもに何かを教えて育てることだというものです。

 

 でも、そういった考えを壊そうというのが、伊勢谷さんや東大の取り組みだといえそうです。

 つまり、彼らの行う教育は、教えないで育てることだといえそうです。

 

 生まれてきた者はみな、自分の生きている世界を知ろうという好奇心にあふれています。それは人間に限らず、すべての動物に共通しています。

 わざわざ教えなくても子どもたちは学ぼうとしています。

 

 ではなぜ、大人が子どもに何かを教える必要があるのでしょうか?

 

 それは、この世界にルールがあるからです。常識といってもいいです。

 子どもたちが自ら学ぼうとしていることは、必ずしもこの世界のルールや常識と一致するわけではありません。だから、先に生きる者としての大人がこの世界の仕組みを子どもに教え育てるのです。

 学校は、それを行うのにもっとも合理的な装置です。

 子どもたちを一か所に集めてプロである先生が世界の仕組みを説明したほうが、それぞれの家族が子どもに教えるよりも効率的です。

 

 しかし今、効率化による弊害が出てきています。子どもたちの画一化です。

 

 かつて画一化は弊害ではなく、むしろ恩恵でした。

 高度経済成長における日本は工業化によって大きく進歩したわけですが、工場や企業は集団の和を乱さない人材を必要としていたからです。個性なんて邪魔なわけです。与えられた指示を忠実にこなす人間が必要とされるなかで、学校教育はその人材育成に大きく貢献してきました。

 徹底した管理教育によって、子どもたちの個性をつぶし、社会が求める没個性的で集団の和を乱さない人材の育成に成功してきたわけです。

 こうした教育のおかげで、日本は世界でもトップクラスの経済大国となり、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と呼ばれるにいたります。

 

 教える内容や分量に変化はありながらも、基本的な教育システムはずっと保たれたまま現在に至る学校ですが、その一方で社会システムは激変しています。

 

 人工知能が社会を変えようとしている今、没個性的な人間がつける職業は少なくなりつつあります。誰にでもできる仕事は人工知能に代替されるでしょうから。

それでも学校は依然として、同じ教育システムを保ち続けています。かつて恩恵であった画一化の教育は、弊害でしかなくなっています。

 

 こうした文脈のなかで登場したのが伊勢谷さんの「Loohcs」であり、東大の異才発掘プロジェクトでしょう。子どもたちの個性をつぶすのではなく、自由にさせてのばそうという教育を行っています。

 

 教えて育てるのも教育ですが、教えないで育てるのも教育だと僕は思います。

 そうした学校は上の取り組み以外にも存在していて、代表的なのがサドベリースクールと呼ばれる学校です。

 この学校には、テストも時間割もなければ、教師もいません。普通の学校とは正反対の学校です。そんな学校について明日紹介しようと思います。