モモ 時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子のふしぎな話

 

モモ (岩波少年文庫(127))

モモ (岩波少年文庫(127))

 

 

 最近、「時間」について考え、そしてブログを書いている。時間について考えるうえでもっとも参考になる本といったら、最初に『モモ』が浮かぶ。

 といってもこの本、時間に関する難解な哲学書でもなければ、時間節約を指南するビジネス本でもない。子どもでも読めるやさしい物語だ。この物語は世界中の人々に読まれていて、多くの東大生も幼いときにこの本を読んでいる。

 この本の一体どこが魅力なんだろう?それは、やさしい物語なのに、時間の本質をついている点だ。時間とは一体なんなのか、それを「モモ」という女の子をとおして考えさせてくれるのがこの物語だ。

 

作者について

 作者はミヒャエル・エンデ(1929-1995)。ドイツの児童文学作家。1989年には、同じくエンデの作品である『はてしない物語』の翻訳者佐藤真理子さんと結婚している。

 

どんな話?

 ある日、モモという年齢不詳の女の子が都会のはずれの廃墟に住み着く。彼女には話を聴くという一見平凡な才能があった。でも、モモとおはなしする人たちはみな満たされた気持ちになり、子どもから大人まで多くの人が集まるようになる。

 ある時、どこからともなく「時間どろぼう」とよばれる灰色の男たちが街に現れ、人々に「あなたは時間を無駄にしている。今わたしに時間を預けてもらえれば、将来もっとたっぷりの時間をあなたにお返ししよう」ともちかけ、多くの人から時間を奪っていく。

 街の人々は、あくせくとせわしなく働き、モモのもとには来られなくなる。子どもたちは大人に時間の大切さを訴えるデモを起こすも効果はなく、施設に閉じ込められてしまう。

 そんななか、モモのもとに「カシオペイア」という名のカメが来る。時間をつかさどる者、「マイスター・ホラ」からの使者だという。カシオペイアに導かれマイスター・ホラのもとへ行ったモモは、マイスター・ホラのアドバイスをもとに、時間どろぼうが人々から奪い取った時間をとりかえすためのたたかいに臨む。

 

モモの世界とぼくたちの世界

時間どろぼうは、たとえばこんなふうにして人々から時間を奪っていく。

 

「・・・あなたは、年とったお母さんとのふたりぐらしですね。毎日あなたは、お年よりのために丸一時間も使っている。つまり、そばにすわって、耳の聞こえないお母さんをあいてに、おしゃべりをする。これはむだに捨てられた時間です。五千五百十八万八千秒ですな。それから、よけいなセキセイインコまで飼っていて、その世話に毎日十五分も使っている。それが一千三百七十九万七千秒。」           (pp.81-82)

 

 時間どろぼうのえじきになったフージーさんは、お母さんを施設に預け、セキセイインコを売りはらって、いっそうあくせくと働くようになる。恋人にも、仕事で忙しいから会いに行けないと伝える。彼はだんだん怒りっぽく、落ち着きのない人になっていった。節約した時間は彼の手もとに残らず、時間どろぼうが残らず持っていってしまう。

 

 「ひどい」と思うかもしれないが、これ、僕たちの世界で起こっていることと同じじゃないですか!?

 施設に親を預けている人はたくさんいるし、お母さんは子どもを保育園や幼稚園に預け働きにいっている。デートより仕事を優先せざるをえない人だってたくさんいる。

 

 「しかたないだろう」と思う人は多いだろう。でも、それで思考停止していたら、ぼくたちはこれから先、今以上にどんどん時間どろぼうに時間を奪い取られていくだろう。

 

 時間どろぼうは架空の存在ではない。なぜなら、時間どろぼうの正体は資本主義だから。

 

 多くの人が感じているように、あまりにも速く社会が変化し、それにともなって時間の流れ方が以前よりもいっそう速くなっている。

 それは資本主義のしわざであり、時間どろぼうがぼくたちのまわりにうろついているからだ。

 ぼくたちは、少しだけたちどまる必要がある。そして、「しかたがない」と思考停止するのではなく、自分や社会に何が起こっているのか考えるべきだ。そのためのヒントが『モモ』の中にはある。