毎日ブログを書くのが習慣になった。
そうなると、毎日歯みがきをしないと気持ち悪く感じるように、ブログを更新しないと気持ち悪くなる。だから、今日もこうしてパソコンをひらいて文章を書いている。
ただ、今日は少し風邪気味でパソコンをひらくのがしんどかった。
こんなとき、スマホがあればなぁと思ってしまう。
仕事の合間や、帰りの電車のなかで書けば、わざわざパソコンをたちあげる必要がないのだから。
以前にも書いたが、僕はガラケー人間だ。
しょっちゅうスマホがあればなぁと思ってしまう。
それでもガラケーにこだわり続けるのは、スマホという利便性を手に入れれば、それとひきかえに自分が大切にしているものが失われてしまうと思ったからだ。それについては、上の記事のなかで書いたので省略する。
ところで僕は次のようなことをよく考える。
スマホがまだ社会に出まわっていなかったころ、そのころの人はスマホがなくて不便に感じていたのだろうか。
そんなはずはない。スマホは存在していなかったのだから。
スマホがなくて不便だと思ってしまうのは、スマホがこの世界に存在しているせいである。
スマホがなければ、僕は不便だなぁと嘆くこともなかったのだ。
この気持ちはスマホを持っている人には分かりづらいだろうから、次のことを考えてみる。
たとえば、ぼくたちは「どこでもドア」がなくて不便だなぁと感じるだろうか。
そんなことを思っている人はたぶんいないだろう。
もしかしたら10年後に、「どこでもドア」を一人が一台ずつ持っている時代が訪れるかもしれない。
そのとき、「どこでもドア」を持っていない人はこう嘆くはずだ。
「どこでもドア」があればなぁ、と。
この人は、スマホを持っていない僕と同じ気分を味わっている。
「どこでもドア」のせいで不便さを感じているのだ。
ぼくたちは、今現在「どこでもドア」を持っていない。
だからといって、不便さは感じないし、それがないからって不幸だとも思わない。
でも、仮にそれが普及し一般的なものになると、持っていない人は不便さを感じるし、おそらく持っている人も、ぼくたちが想像しえないさまざまな不満を感じるだろう。
だって、あれだけ便利なスマホに対して、ぼくたちは「電池の減りが早い」だのなんだのって不満たらたらではないか。
だから僕はこう問いたい。
はたして便利さは人に幸せをもたらしているのだろうか。