映画『ファイトクラブ』を観ました。
今まで観た映画のなかで五本の指に入るすばらしい映画。
数年前にも観たんだけどストーリーが難しい。でも、今回もう一度見直して理解し、やっぱりこの映画はすごいと感心しました。
この映画についてはネットでいろいろな解釈がされているんだけど、僕自身の解釈はそれとはまた違うので書いておこうと思います。
『ファイトクラブ』は自己言及の物語
The Bizarre Ending Of Fight Club Explained
あらすじを書くのは面倒なので、上の記事を貼っときます。
僕の解釈では、これは自己言及の映画です。
この映画は消費社会を痛烈に批判します。
“僕”の分身であるタイラー・ダーデンは映画のなかで言います。
「我々は消費者だ。ライフスタイルに仕える奴隷。殺人も犯罪も貧困も誰も気にしない。それよりアイドル、テレビ、ダイエット、毛生え薬、インポ薬にガーデニング…。何がガーデニングだ!タイタニックと一緒に海に沈めばいいんだ!」
哲学者ボードリヤールが指摘したように、現代社会の人間は記号を消費する生活に追われます。
インスタ映もその一つ。
インスタに映えるような場所に行ったり、食べ物を撮ってアップする。すると、みんなが殺到する。場所や食べ物が一個の記号として消費されるのです。
生活に必ずしも必要でないものを次々に買いこみ消費するライフスタイル。
タイラーが言うように、ぼくたちは記号を消費するライフスタイルの奴隷です。
でも、物をナナメに観る人はこう批判するでしょう。
「この映画は消費社会を批判しているけど、この映画自体も消費される一個の記号にすぎないでしょ?」
たぶんデイビッド・フィンチャー監督は、その批判は想定内だったと思います。
だから物語の最後のほうに、男性器を映したポルノ画像を一瞬挿入した。
どういうことか説明します。
映画のなかでタイラー・ダーデンは映画技師として働いています。
彼はいたずら好きで、子ども向けのファミリー映画に一瞬だけポルノ映画のフィルムを挿入します。そうやって観客を不愉快な気分にして、物語を台無しにする。
『ファイトクラブ』の最後は、“僕”とマーラーが手をつないで爆破されるビル群を眺めているところで終わります。
“僕”は最初マーラーが嫌いだったのに、最後には恋人の関係になっている。なんかハッピーエンドの恋物語みたいになって終わろうとしているのですが、監督はそんなシーンにポルノ画像を一瞬挿入して物語をぶち壊す。
監督は、消費社会に反旗を翻すタイラーと同じことをして物語をぶち壊すことで、『ファイトクラブ』という映画が一個の記号として消費されることを拒否しようとしたのではないでしょうか?
実際監督もタイラーと同じ価値観を持っていて、フォックスという巨大な映画会社から70億円もの予算を引き出すことに成功しています。後年、フィンチャー監督は「この映画にあんなに予算をつけるだなんて、奴らは本当にアホだよな!」と嘲笑ったらしいです。
消費社会の一翼を担うフォックスに一泡ふかせてやったのです。
以上が『ファイトクラブ』が自己言及の映画だと思う理由です。
この意味でいけば、『ファイトクラブ』とゲーデルやエッシャー、バッハは共通しています。
ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環 20周年記念版
- 作者: ダグラス・R.ホフスタッター,Douglas R. Hofstadter,野崎昭弘,柳瀬尚紀,はやしはじめ
- 出版社/メーカー: 白揚社
- 発売日: 2005/10/01
- メディア: 単行本
- 購入: 14人 クリック: 432回
- この商品を含むブログ (145件) を見る
作者のダグラス・ホフスタッターは、ゲーデルの不完全性定理も、バッハの音楽も、エッシャーの絵もすべて自己言及というキーワードでつなぐことができるといいます。
これはエッシャーの作品で、右手が左手を描き、左手が右手を描いています。
これも自己言及ですね。
僕は『ゲーデル、エッシャー、バッハ』に挑戦したのですが、あまり理解できなかったので、以下の書評を貼り付けておきます。
人間てのは、本当に不思議な存在ですね。