プレジデント社がこの前発売した『2019年 時間革命』。副題は、「仕事がラクになる『時間ドロボー』撃退法」である。
昨日『モモ』を紹介したが、『モモ』の副題にも「時間どろぼう」が登場する。
僕は、この二冊のあいだの「時間どろぼう(ドロボー)」という言葉の使われ方に違和感を持った。「なんだかおかしいぞ、ねじれている」と感じた。この奇妙な感じを言葉にしてみようと思う。
プレジデント誌について
優秀なビジネスマンが平凡なビジネスマンにアドバイスするという内容の雑誌
2019年 時間革命の内容
ここに登場する「時間ドロボー」の正体は、仕事に生じる無駄のこと。無駄なことをしているから時間を浪費している、つまり「時間ドロボー」に時間を奪われているということ。
時間革命とは、さまざまな無駄をなくすことによって、もっと効率的に仕事しようというもの。
・だらだらと続く退屈な会議、報告やらプレゼンやらといったたくさんの会議。こういうのは一本化して、出るべき会議にだけ出よう。
・ メールが長いラリーになるようなら、電話で終わらせよう。
・ やるべきことが多すぎるなら、To Doリストをつくって優先順位をつけよう。
etc
優秀なビジネスマンとは、年収が多く会社の業績アップに大きな貢献を果たしている人のこと。この人たちは、ランチも飲み会もビジネスチャンスと考えて積極的に参加して人脈を築こうとする。通勤時間はコストではなく自己投資する時間と考え、読書やニュースを読んで情報を入手する。趣味や家族との時間さえも、仕事の成果につなげようとする。
優秀な人ほど、仕事の一つ一つを時間測定し、分単位で考える習慣を持っているようだ。
モモとビジネスマンの奇妙な対立
三時間も続く長くて退屈な会議は二時間で終わらせ、あいた一時間を自分のやるべき仕事にあてるのは合理的だ。意味のないメールのやりとりは電話一本で終わらせるのも合理的、To Doリストをつくって優先順位を決め仕事をこなしていくのも合理的だ。
「時間ドロボー」を撃退する方法として効果的だ。
でも、優秀なビジネスマンのように、日常のすべてを仕事の成果につなげようとして無駄を排除しようとすると、はなしがちがってくるように思う。
『モモ』に出てくる「時間どろぼう」は、人々の一生を秒単位で計算して、これに時間を費やすのは無駄、あれに時間を費やすのは無駄と切り捨てていく。
そのせいで、昨日紹介したフージーさんなんかは、毎日世話していた母を施設に預け、飼っていたインコを売りはらい、恋人のもとへ足を運ばなくなる。そしてあくせくと働き始める。
僕は仕事の帰りによく道草を食う。定期圏内の適当な駅で途中下車してあてどもなく散歩したり、公園ののらねこをなでたりする。僕は、仕事のためになると思って散歩したり、ねこをなでててるわけではない。仕事という観点からみれば何の価値もない行為だ。だから、優秀なビジネスマンも「時間どろぼう」も「そんなものは時間の無駄だ」と切り捨ててしまうに違いない。
僕だけじゃない、今では多くの子どもたちが学校の帰り道に道草を食わずに、塾や習い事に直行している。「遊んでないで、もっと勉強しなさい!」と言われる。
僕は大学時代、自転車で日本を放浪した。何を思ったか、平日の朝六時半から八時半まで、東京の新橋だったか日本橋駅のホームのベンチで、電車から吐き出されてくるビジネスマンを定点観察した。彼らはみな、灰色の無表情で僕の前を通り過ぎていった。「よっしゃ、仕事やったるで!」というやる気に満ちた表情は皆無だった。
僕には、「時間ドロボー」を撃退した優秀なビジネスマンが「時間どろぼう」のように見える。ミイラ取りがミイラになったのだ。彼らは資本主義の権化なのである。
無駄を排除して生まれたはずの彼らの時間は、一体どこへ行ってしまったのだろう?