おれは哲学が好きなのか?

今日仕事でやってた古民家のリノベーションが終わりを迎えた。最終の仕上げとしてNPOの代表や大学生たちといっしょに家具を運び込んだ。それが終わってストーブを囲みながら会話しているとき、NPOの代表に「○○くん(おれのこと)は哲学の先生だけな」と言われた。「はて?」と思った。とりあえず「いや、先生と呼ばれるほど知識はないですよ。大学で哲学を専攻していたわけじゃないし」と答えた。「でも哲学は好きなんでしょ?」うーむ、おれは哲学が好きなんだろうか?と思いながら「まぁ好きですね」と答えておいた。おれはしまったと思った。自分は哲学しているなんて過去に言うべきではなかったのだ。まず「哲学」というものに対しての双方の認識に落差がある。おれは哲学=考えることだと思っている。しかしNPOの代表を含め一般の人間の哲学に対する認識はアリストテレスニーチェなどがややこしい専門用語をこねくりまわしているというものだ。自分はたしかに歴史上の哲学者たちの書いた本を読むが、好き勝手にかじっているだけで体系的に読んでいるわけじゃないし、哲学を専攻していたわけでもない独学の素人だ(哲学のプロとは何ぞや?)。そういうことだから、あっちはおれのことを難解な哲学書をよみこなし専門用語を駆使し、それを自分たちに分かりやすく教えてくれる先生だと勝手に解釈している。実にめんどくさい。たしかに哲学者の書いたあのややこしい文章も哲学に違いない。ただ哲学はそういうものだというイメージがついたせいで、哲学というものはほんの一握りがやるもので自分たちには関係ないものという誤った認識が染みついてしまっている。哲学というものはもっと簡単なもので、考えることなのだ。考えるとは何なのかというと、問うことだ。なぜ?と思うことがあるならそれはすでに哲学なのである。そしてそれを考えるプロセスがどんなに簡単なものであっても、そこに小難しい用語が並んでいなくともまったくかまわないのである。

それに、おれが思うに「哲学の先生」という言葉は矛盾している。先生ときくと、その向こうには生徒がいて、先生が生徒に知識を与えるという図式が思い浮かぶ。これは哲学と相容れない。たとえば学校で先生が生徒に1+1=2だと教える。そしてテストでは2と解答した生徒に〇を与える。他の解答をした生徒には×を与える。これは断固として哲学ではない。おれが考える哲学とは考えることであり、考えるとは問うことである。つまり、1+1=2と教えられたなら、なぜ1+1が2になるのか問うことが哲学なのだ。そして、必ずしも1+1は2ではない。だから仮にテストで10と書いたって〇なのだ。しかし先生は2以外の答えは×にする。このとき先生という存在、ひいては国家の教育システムは生徒の哲学する芽をつぶしている。こういう態度をとる先生という存在は哲学とは相容れないのだ。だから「○○くんは哲学の先生だけな」という何気ない言葉に「はて?」と思った次第である。しかし、哲学はフィロソフィーであり、これは知を愛するという意味である。この知とは一体何を意味するのだろうか?知ること、知識、知恵?しかしおれが思うに、むしろ知識そのものに疑問を投げかけることが重要だと思うのだが。いやはや、だがそこには前提として知識を知っていることが必要だ。知識を疑うにはその知識を知っていなければならないのだから。知を愛するとは何ぞや?

「でも哲学は好きなんでしょ?」と代表は訊く。おれは哲学が好きなんだろうか?いやはやそれが分からないのである。哲学とは考えることだ。おれはたしかに考える。でもこの考えるというのがよく分からないのだ。「考える」と書くとこれは能動的な行為に思える。でもおれにとって能動的に考えるという状態がよく分からない。学校のテストで問題を解いているときの「考える」は分かる。たしかにあのときは能動的に考えていた(いや、正確には考えさせられていた?)。しかし学校を卒業した今、おれが考えていると思っているそのときの状態はというと、ちょうど白昼夢を見ている感覚に近いのだ。電車に乗っているとき、車を運転しているとき、退屈な時間をやりすごしているとき、そんなときはボっ―としていて勝手に脳みそが考えている。そう、脳みそが勝手に考えているのであって、おれが考えているわけではないのだ!誰しもそうだと思うが、夢を見るのは、自分が見たいと思って観ているのでなく、勝手に脳が上映会してるのをわれわれが見ている。おれにとって考えている状態というのはこれである。おれは他の人よりもポケ―っとしているし、ポケ―っとしてるのも好きだ。で、ポケ―っとしてると脳が勝手に上映会を開くがごとくいろんな景色を見せてくるのである。このように考えると、おれは考えるという能動的な行為を行っているのか?と思う。ある程度哲学的な知識がある人ならこのような状態を「中動態」と呼ぶだろう。しかし現代の日本語という言語構造に中動態はないから完璧な説明はできないし、今言ったようなことをいちいちNPOの代表や大学生に話したって「???」になるだろうから「まぁ好きですね」と濁してしまうわけだ。おれはポケ―っとするのは好きだが、そのあいだに見ている光景が好きかといえばそれはよく分からない。嫌いではないし不快でもないが、好きかと聞かれたらよく分からない。だから「考えるのが好きか?」と聞かれても、「考える」という言葉もよく分からんし、「好き」かもよく分からん。ただ、おれの頭は傾向として哲学的なことを考えている。べつにアニメのことを考えてもいいし、飛行機のことを考えてもいいし、ギリシアのことを考えてもいいが、そういうことを考えたことはほとんどないから、おれのことは分からないが、おれの頭は哲学が好きなんだろう。おれはおれのことがよく分からない。いつだって自己はもっとも遠い他者なのである。