今日は、社会学者マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を質素に解説してみようと思う。
1 プロテスタントとは何か
プロテスタントとは、「反抗する者」という意味。
何に反抗しているかといえば、カトリックに反抗している。
16世紀、カトリックは信者に贖宥状を与えることで儲けていた。
「これを買えばあなたの罪はゆるされますよ」と信者に売りつけていたのだ。教会が金儲けに走っていたのである(信者と書いて儲けると読む)。
「これはおかしい」と思ったルターが、宗教改革を起こしプロテスタントが誕生した。
2 資本主義の精神とは何か
時は金なり
多くの人が知っていることわざだ。時間は金のように大切なもので、無駄にしてはいけない。
勤勉が成功へのカギである
なまけていては成功できない。人の信用を得るためには時間をしっかり守って行動すること。
お金はお金を生み、それを増やしていくことが義務である
お金はお金を呼ぶ。それを着実に増やしていくことは個人の義務であり、それを怠ってはならない。
以上のような考えを、個人ではなく、社会全体で共有している雰囲気のことをウェーバーは「資本主義の精神」と呼んでいる。
3 プロテスタントの教え
天職について
天職は、英語で「calling」と書く。call、つまり呼ばれるのだ。
いったい誰に呼ばれるのか?そう、神が呼ぶのだ。
わたしたちはこの世界で、神のために働かなければならない。プロテスタントはそう考えている。
予定説について
神はあらかじめあの世で救う人間を決めているという説。
ということは、救われる人間と救われない人間がすでに決まっている。
これは、なかなかひどい説だ。
たとえば仏教では、功徳を積めば極楽へ行けるとか、必死に祈れば天国へ行けるという考えがある。
しかし、予定説は、この世で何をしようと救われるか救われないかには関係ないと言っている。じゃあ自堕落に暮らしたっていいじゃないか。そう考える人もいるだろう。しかし、プロテスタントはそう考えなかった。
予定説を信じるプロテスタントは不安に思った。
「自分はどちらなんだ?」
そしてこう考えた。
「自分が救われている人間だとするなら、それは一生懸命働いている人間なのだ」
神のために一生懸命働いている人ほど、天国へ呼ばれる人間なのだ。
こうして、自分は救われていると確信を得るためにも、プロテスタントは一生懸命働いた。
4 プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神
一生懸命働けば当然、お金がどんどん貯まってくる。
お金は一つの指標になる。お金が貯まり富裕層になるほど、あの世で神に救われるという証になるのだ。プロテスタントは勝手にそう解釈した。
プロテスタントは、おいしいものを食べたり遊んだりするためではなく、救われているという確信を得るために一生懸命働きお金を貯めた。
彼らはお金が欲しかったのではない。お金が欲しくて働いたのではなく、確信を得るために一生懸命働いた結果お金が貯まっていったのだ。
ここまでくると、プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神がじつによく似たものであることに気づいただろうか。
禁欲的に一生懸命働くプロテスタントの倫理は、「時は金なり」「勤勉が成功へのカギ」「お金を増やすことは義務である」という資本主義の精神と、動機の違いこそあれ合致するのである。
マックス・ウェーバーは、プロテスタンティズムの倫理が資本主義の精神を成立させる一つの要素であると考え本書を書いた。
かんちがいしてはいけないのが、プロテスタントが資本主義を生んだということではないこと。彼らは資本主義を成立させる一つの要因にすぎない、とウェーバーは言っている。
皮肉なのが、カトリックの金儲けを否定して生まれたプロテスタントが、結局金儲けを促進したことだ。
そして、さらに皮肉なことをウェーバーは言っている。
営利のもっとも自由な地域であるアメリカ合衆国では、営利活動は宗教的・倫理的な意味を取り去られていて、今では純粋な競争の感情に結びつく傾向があり、その結果、スポーツの性格をおびることさえ稀ではない。
(pp.366)
何を言っているかというと、神のために働いていた労働が、いつの間にか神はほったらかされ、純粋な競争、スポーツのような性格を持ってしまったのだ。
ぼくたちは資本主義の国に生きているわけだけど、誰も神のために働いていないよね。それは他の国でも一緒で、神に救われるという確信を得るために働いている人などもういないということ。
宗教的な意味合いはもうなくなり、今では単なる競争となった労働。
ぼくたちは、資本主義という「鉄の檻」に閉じ込められ労働から逃げることはできない。
資本主義という檻が限界まで発展したときに現れる末人たちについて、ウェーバーはこう述べている。
精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまで登りつめた、と自惚れるだろう
(pp.366)
『サピエンス全史』『ホモ・デウス』を執筆した歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリは、テクノロジーによって人間は自らを「超人間」にアップデートするかもしれないと述べている。
ぼくたちは、資本主義の最終段階にいる末人なのかもしれない。
だとするならば、その先にはどんな未来が待っているのだろう?
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を、たとえを使って分かりやすく説明しています。こちらもどうぞ。