千葉雅也『現代思想入門』脱構築で生きづらさを解体する

話題の新書『現代思想入門』を読み終わる。

 

この人の著書『動きすぎてはいけない』『意味がない無意味』は難しくてよく分からなかったが、この『現代思想入門』は難解な現代思想をだいぶかみ砕いて素人にもやさしい一冊となっている。おススメ。

 

なんかここ数年、あるいは10年くらいかな、日本社会や世界全体が多様性を尊ぶ流れになっていてそれはとてもいいことだが、同時に生きづらさが増しているような感じがある。LGBTQとかフェミニズムとかそういったものが認知され、ニートや引きこもりにも以前に比べたら向けられる目がだいぶ穏やかになっていて、それはさまざまな個性が認められることであって生きやすい社会になっているはずなのに、なぜなのか以前よりも息苦しさが増している。それは多分に経済やコロナの影響があるのだが、人々の意識というか、下手なことを言うとすぐに炎上するから言いたいことも簡単に言えない息苦しさみたいなものが生きづらさの大きな要因としてあるように思う。

 

著者の千葉は、世の中が非常に「きちんとした」方向に向かっていて、雑さが失われてきていると言う。「きちんとした」方向に向かうなかで、社会の凸凹が均されてしまう、秩序化されることでその周縁にあるものの存在が隠されてしまう、それが社会の息苦しさにつながっている。

自分の感覚を言葉にすると、うまくいえないが反論できない二項対立が社会のいたるところにあって、一方が過剰におしすすめられているような感じがする。たとえば健康/不健康という二項対立があって、不健康より当然健康のほうがいいでしょということでタバコを吸える場所がほとんどなくなってしまうとか。自分はタバコを吸わないからべつに構わないけど、タバコを吸う人間にはすごく肩身の狭い社会だなと感じる。悪よりは善のほうがいいし、不正より正義のほうがいいし、お金がないよりあるほうがいい。誰もがそう思う。そして上にあげたタバコの例のように、一方が過剰に制限されていくのだ。過剰な秩序化はともすれば、その秩序から外れた人間の生きづらさを増幅させる。

現代では特に物事は基本的に二項対立で語られ、一方が善、もう一方は悪というように価値観が固定される。しかしこれだけ社会が複雑になると単純な腑分けなどできないわけで、そこで現代思想の出番となる。千葉によれば、現代思想を学べば「複雑なことを単純化しないで考えられるようになります。単純化できない現実の難しさを、以前より『高い解像度』で捉えられるようになるでしょう(P12)」。現代では、多くの人がコスパを意識していて、複雑なもの、難解なものは理解するのに時間がかかるから避けられる。映画を観るにも早送りして観る人間がいるほど急いでいる。物事は単純に、簡素にしてないと見向きもされない。もちろん、複雑なものを単純にして理解することは重要だ、しかし複雑なものを複雑なまま受け取ることで物事はより本質的に理解できるようになる。その道具の一つとして現代思想がある。

現代思想の代表格はジャック・デリダで、ジャックデリダといえば「脱構築」。現代では、二項対立によって語ることで物事を判断することが多い。脱構築はこの二項対立の、負のイメージを与えられている項が本当にマイナスのものなのか疑い、価値判断を留保させる。脱構築によって対立する二項の価値判断を留保する、これは一見すると優柔不断に思えるが、日々変化する常識を鵜呑みすることなく一歩立ち止まって考える時間を自らに与えることでもある。それは自分なりの価値判断をするチャンスである。

現代というのは「大きな物語」が失われた時代だといわれる。日本だったら、いい学校に行って、いい大学入って、いい会社に入れば…みたいな考えが「大きな物語」として機能していた時代があった。しかしその物語はだいぶ効力を失い、個人個人で物語を作らないといけなくなった。これはある意味でとても大変な時代である。自分で物語を作らないといけないのだから。

本では現代思想の源流として、ニーチェがあげられている。ニーチェは「神は死んだ」と宣言して「大きな物語」を終わらせた。肉体に潜むデュオニソス的なものが持つエネルギーが既存の秩序を揺さぶり混沌へ導く。神という大きな物語ではなく、個人個人の肉体に宿るデュオニソス的なものによって物語を創造せよ!このデュオニソス的なものが現代思想の二項対立を解体する脱構築につながっていると千葉は言う。ニーチェは明るいニヒリズムを肯定したが、自分もこれについてよく考える。

自分の足元では、砂糖に向かってアリが行列をなしている、この行列から一匹のアリが外れて砂糖に向かった。そのアリの通ったルートは行列より近道だった。行列から外れたアリは他のアリから褒められ勲章を与えられた。アリはこの発見のおかげで高給取りになった。アリの世界ではこのアリは偉いアリである。だけど、上から見ている自分にとってはどうでもいいことだ。そもそも、日常でアリの行列に目をくれることなんてほぼない。アリと自分の関係は、そのまま人間と宇宙の関係にあてはまるんだよな。人間の世界で偉大な発見や発明をして偉くなろうが高給取りになろうが、極大のこの宇宙から見ればそんなことはどうでもいいことなのだ。ひとえに風の前の塵に同じである。宇宙から見れば、一匹の人間が大統領になることもノーベル賞を受賞することも取るに足らないことなのだ。

自分は、このニヒリズム話はいろいろな解釈が引き出せて面白いなと思っている。日常のささいなことに悩んでいるときにこの話を思い出すと、「あぁ自分の悩みなんてちっぽけだな」と思える。一方で、一生懸命に努力したり働いたりしているときにこの話を思い出すと「おれのやっていることに一体何の意味があるんだ」と萎える。

デリダ脱構築プラトンの本に出てくるパルマコンを使って説明している。パルマコンは毒にもなるし薬にもなるものである。この話を使って、脱構築は二項の価値対立を無効にするのである。さっきのニヒリズム話もパルマコンである。

現代思想は固まった二項対立を解きほぐす。それによって今までに見えていなかった現象の側面が見えるようになる。それは生きづらさを解体するきっかけともなる。しかし同時にそれは別の生きづらさを与える可能性もあるパルマコンである。それを知ったうえで現代思想を学ぶことをおススメする。