砂川文次の芥川賞受賞作『ブラックボックス』を読んでクモの巣にひっかかったような気分になった

砂川文次の芥川賞受賞作『ブラックボックス』を読み終わった。

 

前半は自転車配達業の話で、後半は刑務所の中での話。

選考委員の一人が「現代のプロレタリアート作品」と評していたが、確かにそのとおりだと思う。メッセンジャーとして自転車で品物を配達する個人事業主のサクマは癇癪持ちで、怒りがたまってくると言わなくてもいいことを言い、それで人間関係を悪くして仕事をやめる。手もあがってしまうので逮捕もされる。現代の底辺をさまよう主人公。

彼は生き方が不器用で、だからこそ人間関係も悪くし、そんな自分を大人になりきれないと卑下している。ただ個人的な印象では、彼は自らに素直な人間だと思った。彼の文脈でいけば、大人になるということは自分の怒りを抑え言わなくてもいいことを言わないということだ。そして、世の中の大人と呼ばれる年齢に値する人間のほぼすべてがこれを実践できている。だけど、その世の中の多くの大人は自分の中にふつふつと沸き起こる怒りを貯めすぎて、そのせいで内部崩壊している。それはうつ病であったり、ひどくなれば自殺、もっとひどいのはこの前の大阪で放火したじじいみたいに周りを巻き込む拡大自殺を引き起こす。主人公のサクマも、税務署の職員や警察に暴力をふるって逮捕されるのだが、ある意味ではサクマのようにその都度その都度怒りを発散させられる人間は、自分のように貯めこんでしまう人間からみればうらやましいなと思う。

 

サクマは逮捕される前、同棲していた彼女から妊娠を告げられ「子どもができるんだからしっかりしてよ」と叱咤される。しかしサクマにはこの「しっかりする」ということが分からない。この感覚、めっちゃよく分かる。自分にも「しっかりする」ことがどういうことなのかよく分からない。メッセンジャーとして働いていたサクマは、職場で言わなくてもいいことを言ってしまいシフトを減らされる。そこで似たような仕事であるウーバーイーツを始める。お金はたしかに入って来るが、個人事業主なので不安定である。正社員になろうかとも思うが、配達業よりも賃金が低い。自転車で配達する仕事なので資格をもっているわけでもないし、そもそもそれ以外の事務作業などもできない。職場のねちねちとした人間関係も、サクマには耐えられない。こういう性分がサクマの足かせとなってしっかりすることができないのである。

 

サクマは逮捕され、刑務所暮らしが始まる。ここでも暴力沙汰を起こす。雑居房の同居人がいじめられているのを見て不快に思ったサクマはいじめてたやつをぼこぼこにする。それは単にいじめていた奴が不快だったから殴っただけなのだが、ちょっとした英雄のようになって他の受刑者の計らいによって食事が増やされたりする。サクマは受刑者たちの勘違いに戸惑う。この暴力行為が原因で独房で50日過ごすことになるのだが、ここで一人いろいろ考えていくなかで、刑務所のなかでの暮らしが過ごしやすいことに気付く。それは制度がしっかりしているからだ。毎日規律正しく過ごし、その先に刑期の終わり、ゴールがある。このような分かりやすいルートが、逮捕されるまでのサクマの人生にはなかった。メッセンジャーの仕事をしていたとき、同僚の横田の言う「ゴール」が一体なんなのか分からなかった。毎日毎日同じことの繰り返しで、その先に何があるのか分からなかった。しかし刑務所での生活を通して、サクマは人生というものは毎日少しづつ違っていてその先にゴールがあることに気付く。物語はそこで終わる。

 

現代のプロレタリアートの不幸の原因は実は自由にあるんだと思った。

この前コテンラジオを聴いてて、どの回だったかもう忘れたが、人間は自由になったとたんうつ病が増えたみたいなことを言っていた。江戸時代のように、生まれによって自分の身分や職業が決まっていると、われわれは不自由だなと感じる。資本主義社会になると一転して身分や職業が個人の自由によって勝ち取れるようになった。これは一見すばらしいことのように思える。しかし自由になるとなんでもできる分、選択肢が増えすぎて戸惑ってしまうのだ。自分でなんでも決められる、これは裏を返せば、何でも自分で決めなければならないということだ。それは実は大変なことなのである。真っ白いキャンバスがあって、何でもいいから自由に描きなさいと言われるよりも、目の前の木を一生懸命に描きなさいと言われるほうがはるかに楽だ。なんでも楽したがる人間にとって自由は重すぎるのである。誰だったっけ、サルトルだったかな、「人間は自由という刑に処せられている」と言ったのは。そういうことである。

結局、現代のプロレタリアートの象徴であるサクマは自由すぎる現代のクモの巣にひっかかっているわけである。もがけばもがくほどからまってどうしていいか分からない。もしサクマが江戸時代のような不自由な社会に生まれていたらひとかどの人物になっていたかもしれない。ゴールが見える楽な社会だったからである。

 

多様性を尊ぶ社会になってきてはいるが、自由であることによって生きづらさを抱える人間が出たように、多様性によって生きづらさを抱える人間も出てきているんだろうな。まぁ本当に人間ってのはひねくれた生き物ですよ。