DaiGoへの誹謗中傷にもやもやする

 

 まず大前提として、DaiGoの優生思想は批判されてしかるべきものだと思う。

 この思想は危険なものだし、同様の思想を持った植松という男が神奈川の相模原で障がい者を無差別に殺して逮捕された。DaiGoは社会的に大きな影響力を持っている人だから、第二第三の植松を産んでしまうことになりかねない。

 

 DaiGoの発言はたしかに批判されるべきものだった。

 でも彼への批判や誹謗中傷を見ていると、もやもやしている自分もいるんだよなぁ。

 批判をしている人たちは正義で、DaiGoと自分は違うと考えていて、だからこそ批判しているわけだが、そんなきっちり分けられるものなのかなと思う。

 

 現代は医療が格段に進歩して、出生前に胎児に障がいがあるかどうか分かるが、障がいがあると分かった時点で中絶を選ぶ人も少なくないという新聞記事を読んだことがある。自分は中絶を選ぶ人を批判できない。自分が障がいのある子の親になろうとしているとき、自分なら障がいのある子をちゃんと育てられるか、経済的に大丈夫か、その子は幸せな人生を歩むことができるのかと考えてしまう。そしてたぶん無理だなと思う。

 

 障がいがあれば中絶するという考えも、一つの優生思想だと思う。

 障がい者は社会に利益を産まないから殺してもいい、ホームレスには税金を使わなくてもいいという植松やDaiGoの考えほど極端でなくても、健康であれば産む、障がいがあれば産まないという行為もやはり優生思想につながるものだと思う。

 

 

 障がい者でなくても、たとえば仕事が遅い人に対してイライラすることは普通だ。

 仕事が遅い人間は利益を産まない。

 というかそもそも、国家が子どもに対してやっていることも、一つの優生思想にうらづけられていると思うのだが。学校でテストの得点に応じて順位づけすることもまた、一つの優れた人間とそうでない人間を分別する行為だ。

 

 

 何が言いたいのかというと、批判する人間とされる人間は地続きであって、批判される人間は対岸にいるわけではないということだ。

 前々から、特に最近は、あちらこちらで炎上が起こっている。DaiGoに限らず、オリンピック関連でたびたび炎上が起こっている。

 たしかに批判されてしかるべきだから批判されているのだが、過激ではないかと思う。本当に大火事になるレベルの炎上のしかたで、批判される人間が二度と復活できないレベルにまで批判してやるみたいな、そういう憎悪をこめた批判に見える。不気味なくらいだ。

 

 

 そういうことで、あちらこちらで起こる批判や誹謗中傷の嵐を見ていると、とてももやもやした気持ちになる。

 炎上にかんする研究があるのか知らないが、たぶん炎上に参加している人の9割くらいは、バカ騒ぎしたいだけの人だと思う。今回のDaiGoの件なら、優生思想とかそういうのはどうでもよくて、炎上しているからもっと油を注いでやれ、もっと祭りを盛り上げたれみたいな、渋谷の交差点に集まるサルみたいな連中がほとんどなんだと思う。

 障がい者やホームレスのことを切実に考えている人や団体を除いては、サルみたいな連中が勝手に炎上させているんだろう。

 

 

 村上春樹の『海辺のカフカ』に、大島さんという、体は女なんだけど生理はこないし乳房も大きくならなくて、心は男で恋愛対象は男という人が登場する。

 大島さんは高松にある私立の小さな図書館に勤めていて、そこにフェミニズム団体の女性二人が来る。女性たちは、その図書館のトイレが男女別になっていないとか、本の並び方が男性の著者が先で女性が後になっていると批判する。大島さんがのらりくらりとかわしていると、その女性たちは、大島さんが男性的な男性であると猛批判する。

大島さんはそこで自分の素性を明かすのだが、女性たちは大島さんについて見当違いなことを言っていたことに気付き、あわてて去っていく。

 大島さんは主人公のカフカくんに、あぁいう、正義をふりまわす想像力のない人たちに黙っていることができないんだと話す。

 

 

 このくだりを読んでいて、炎上に加担している人たちは、正義をふりまわしている想像力のない人たちなんだと納得した。

 批判するなとは言わないが、想像力のない批判をしている人は、結局批判されるべき人間と本質的に変わらないのではないか。

 だから自分はもやもやしているのかなと。