浅田彰『構造と力』感想

年末年始の暇を利用して読んだ。

名前を知ってはいたけれどずっと読んでなかった本。はじめのほうは大学の新入生向けの本なのか、なら読めそうだなと思って進めていたのだが、だんだん意味が分からなくなります。途中から飛ばし読みして、結局意味が分からなかった。

解説は哲学者の千葉雅也。解説を読んでやっと何が書いてあるのか理解した。千葉雅也、すごい。この人、やっぱりめちゃくちゃ頭がいいな。こんなに分かりやすい解説ははじめてだ。このたった数ページの解説だけでも、本を購入した価値があった。もし『構造と力』を読もうと思うのなら、千葉雅也の解説が載っている中公文庫をオススメする。

 

近代というのがどういう時代なのかというと、一言で言うなら、差異をカネにする時代である。ほかの商品とは違う、差異がカネになる時代。差異が記号化され売買される時代。毎年毎年技術革新なんて起きないわけで、そうすると見た目やその商品のイメージなどで売らないといけなくなる。「モノより思い出」の近代。さまざまの記号が溢れているこの時代において、われわれはひたすら消費に駆り立てられる。

コスパだのタムパだの、生産性を内面化しひたすら自己啓発に駆り立てられるのが近代で、ここではすべての差異がガソリンとして競走が促される。ハレとケという二項対立は曖昧になり、毎日が散財へと掻き立てられるような祝祭となる。このような二項対立は近代において脱構築され、今度はその二項対立の外側にあるXという第三者、外部を見立てるのがポストモダン、すなわちポスト近代らしい。

ポストモダンというのは、差異によってひたすら金儲けしようという近代への批判なわけで、では、それに対する具体的なオルタナティブな策があるのか?『構造と力』発刊以来40年、力のある策はないのが実情である。解説の千葉雅也は、ひたすら自己啓発、競走へと駆り立てられる自分とのたたかいから降りるということを言っているが、そういったたたかいから全的に降りることは人間の本質上不可能だとすぐ後に述べる。そして、問いはずっと開かれたままだと言う。

コロナが世界中を襲い経済は大打撃を受けた。人々は文字通り動けなくなった。千葉雅也の代表作『動きすぎてはいけない』を体現する数年間。コロナは、近代に対するアンチテーゼとなった。われわれは近代を、本当の意味で反省するチャンスを得ていた。

で、どうなったか?何も変わらなかったようだ。コロナは5類認定され、人々はコロナ前の世界へと戻りつつある。それだけ近代が、資本主義が強力だったのだ。

つまり、解決策はないのである。そして、解決策を模索しているあいだに、地球環境は刻々と悪化している。猶予はない。

だからこそ、前提を問う必要がある。これまでは、人間の存在を前提として、人間の活動を考えてきた。だから何一つとして問題は解決しなかった。われわれは人間の存在という自然な態度を判断中止しなければならない。

われわれはうすうす気づいている、人間が存在している限り、何をしようと、地球環境は悪化し続けるし、戦争は終わらないし、格差は拡大し続けると。そうして、すべてが共倒れすることになるだろうと。

だから、近代を終わらせるオルタナティブな解決策は一つしかない、人間が絶滅する、これ以外の解決策はない。そのために、少子化を加速させるのだ。

そして見事なことに、日本をトップランナーとして、軒並み先進国は少子化を加速させているのだ。だから、頭のいいマヌケな哲学者どもよりも、国民は遥かに賢くつねにすでに実践しているというわけである。

不登校、ひきこもり、ニート、こういった賢いオルタナティブは近代をすでに脱却している。ひたすら自己啓発へと向かわせる近代に抗って、自分とのたたかいから降りている。そして、国家をぶち壊そうとしている。自分とのたたかいからいつまでも降りられないマヌケども、資本家、経営者、政治家、ビジネスマン、こういった連中がネガティブキャンペーンを展開しているが、不登校やひきこもり、ニートは増加の一途をたどっている。

なんにせよ明らかなのは、人間が存在している限り、人間も含めてあらゆる動植物は滅亡へと向かうということだ。人間以外の生き物は地球環境を悪化させないわけだから、人間だけが絶滅すればすべてが丸くおさまるのである。

これを見事なまでに表したのが『進撃の巨人』であり、自由を求めて、その奴隷となったエレンは人類を大虐殺した。それによって平和が訪れるのかと思いきや、人類は馬鹿だから再び戦争を後に始めたのである。つまり平和のための選択肢と正しかったのはジークのほうで、人類は安楽死計画を実行すべきだったのである。

全世界の人間が、今から誰も子どもを産まなくなれば100年で人類は絶滅することになる。これは近代を脱却するもっとも現実的で唯一のオルタナティブな解決策である。そして先進国の国民はすでにこれを着々と推し進めている。

だから、哲学者はどうしたら近代が脱却できるのかとウンウン悩む必要はないのである。近代はすでに脱却され始めているのだから。