千と千尋の神隠しと名前

高校生のとき、英語の先生が英和辞典よりも英英辞典を使ったほうが英語力がつくと言っていた。でもそこでふと疑問に思った。ある英単語の意味が分からなくてその意味を調べたとき、その英単語をべつの英単語で説明してあるのを見たところで、その語の意味が正確にわかるものなのだろうか。それならまだ、日本語で説明してあるほうがその語を正確に理解できそうな気がする。これを同級生に話したら、そもそも最初に言語自体をどうやって理解するのか疑問に思ったことがあると言っていた。

言語のイメージは閉じた球のような感じで、たとえば日本語を話せる人間は日本語という閉じた球のなかにいて、日本語を全く知らない人間は球の外にいる。ほかの言語も同じで、自分はスワヒリ語を知らないからスワヒリ語という球の外にいる。そんな感じ。

スワヒリ語をこれから勉強しようというとき、つまりスワヒリ語という球のなかに入ろうというとき、どのように勉強するかといえば、スワヒリ語のある単語と、日本語のそれに対応する単語を一対一対応させる。それを足がかりにして、スワヒリ語の語彙を増やしていくことで球の内部を知っていく感じだ。

で、同級生の言いたいことは、生まれた瞬間は何も知らない状態だから、すべての球の外にいる、ではどうやって言語を覚えていくんだろうということ。

それで最近考えたのは、名前だなということ。われわれは生まれてからすぐに名前をつけられる。名前をつけられ、母や父などに、名前を呼ばれる。呼ばれることで、日本人なら日本語という球の内部に足を踏み入れる。だから名前ってものすごく重要な役割を果たしているのだと思った。

それでこの前の金曜に『千と千尋の神隠し』をやっていて久しぶりに観たのだが、千と千尋という名前がタイトルにも入っているように、名前が非常に重要な意味をもっている。

主人公は普段の世界では千尋という名前で生きていて、引っ越しのとき、変なトンネルを抜けたら異世界にでてしまった。母と父は豚になってしまい、千尋湯屋にたどり着く。そこで湯婆婆に元の名前を取られ千にされてしまう。ハクがいなければ、千尋という名前は忘れてしまうところだった。

これを観ていて、もしかしたらこの世界に生まれる前、自分はべつの名前を持っていたのかもしれないなと思った。この世界に生まれ落ち、名前を与えられたことで、もとの世界での名を忘れてしまった。

千が千尋という名前を忘れなかったのはハクがいたおかげで、ハクが自分の名前を思い出せたのも千のおかげだ。もとの世界で二人が出会っていたからこそ、千は千尋に、もとの世界に戻ることができた。

名前というのは、呼ばれるものだ。呼ばれるというのは、閉じた球の外にいる自分が中に入っていくためのコードで、中に入ると外のことは忘れてしまう。だからこそ、名前は重要である。ほかの単語よりも。

だいたいヒットする作品というのは、新しいのに懐かしさを感じさせるもので、この懐かしさというのが心の奥底の、自分でも忘れているような感覚のものだ。千の千尋だった部分。そこは異世界であり、無意識であり、日常の自分は忘れているのだけど、でもたしかに自分がいたところ。そこに行くのにトンネルを通るというのは、村上春樹の作品ではおなじみだし、川端康成の『雪国』でも同じなのは興味深い。これらは世界的にヒットしていることからも、世界中の人間の心に共通の琴線があるのだろう。