タイの、文字も暦も持たない狩猟採集民ムラブリの言語を研究する伊藤雄馬の著作を読んだ。
言語というのは一つの宇宙、というのは言い得て妙で、自分の知らない宇宙に接するとき、どのようにしてその宇宙を知っていくかというのに、この本は参考になる。それが自分のいる宇宙と全く異なっているとき、自分はどう変化していくのか。
ムラブリは、森で採集狩猟する民で、ナイフ一本あれば事足りる。あとは現地調達できる技術を持っているからだ。言葉も最低限しかない。感情を表す言葉がほとんどないため、傍からみると無愛想に見える。
暦がないから、未来とか過去という区別もほとんどないようだ。ムラブリの言葉で「モイ ア ワール」は「彼はもう帰った」と「彼はこれから帰る」を意味するらしい。もう起こった過去の出来事とこれから起こる未来の出来事が同じ言葉で表現されるのだ。非常に興味深い。だから、伊藤がムラブリの人に「明日の予定は?」と尋ねても「分からない」という。彼らにとって未来のことはその日になってみないと分からないからだ。
過去と未来に区別がないというのは、なんだか不思議な感じがする。映画『メッセージ』で宇宙から来たヘプタポッドというタコみたな生物が、主人公にメッセージを授けていた。ヘプタポッドの言語には時制がなく、したがって人類にとって未来の出来事が見通せるのだった。主人公はヘプタポッドの言語を介して自分の未来を見ることができ、ヘプタポッドのメッセージが伝わると彼らは地球を去っていった。
過去から現在そして未来という時間軸で生きる自分たちにはうまく想像できないけれど、ヘプタポッドやムラブリにとっては過去と未来はさして違わない。量子力学の観点からはむしろ、時制がない言語のほうが普通であって、今後学問が進むにつれ、ムラブリのような言語が趨勢を持つかもしれない。
東大の研究だったと思うが、わたしたちは悲しいから泣くと思いがちだが、そうではなくて泣くから悲しいということが明らかになった。感情は身体の反応に後から貼り付けられるのだ。中動態はそういう意味で理にかなっていたが、今は能動\受動が一般なので、悲しいから泣くのだというふうに間違った感覚を抱いている。社会構造が言語の規格を決定し、われわれはその構造のなかで世界を認識する。
本のなかに、季節の話がでている。わたしたちは「もう7月なのに涼しいね」と平気で言ったりする。しかしこれは人間の都合でつくった暦で勝手に区切っているだけで、7月は夏だから暑いというのはおかしな話なのだ。たしかにそのとおりだと思った。この件を読んでいて、バーバパパというユーチューバーの、やや左に偏った教育番組を思い出した。
「お外が暑くなってくると夏になるよね」、暑いから夏になったとか、夏だから暑いという認識はよくよく考えたらかなりおかしいわけで、われわれは立派に洗脳されているのである。言語をとおしてしか世界をとらえることができない以上しかたのないことかもしれないが。
ムラブリの言語は絶滅の危機にあり、伊藤がこうして研究し本にしなければ、われわれは一生ムラブリを知ることがなかったかもしれない。ムラブリがわれわれと全く異なる「世界」を生きていて、だからこそわれわれは自らの世界を相対化できる。伊藤の研究はとても意義があるなと感じた。