8月15日NHK放送の『太陽の子』を観た。
理由は、三浦春馬くんが出てるから。
三浦くんは、京大で物理学者をやってる修の弟、裕之を演じていた。
裕之は戦地から実家に戻り、つかの間の休養をしている最中だった。
ドラマでは、修と裕之、その親類の世津の3人が旅行で海を訪れていた。
バスで帰宅している途中、エンジントラブルがあって、乗客全員野宿することになった。夜も更け、修が仮眠から目覚めると、裕之がいない。世津とともに探していると、明け方海で入水しようとしている裕之の姿があった。修はあわてて裕之を海から引っ張り出す。
裕之は「怖い、怖い、死ぬのが怖い」と泣き叫びながら引っ張り出されていた。
これから爆撃機で突っ込まなければならない運命を背負っている裕之を観て胸が締め付けられた。以前読んだ、きけ わだつみのこえ―日本戦没学生の手記 (岩波文庫)
も同時に思い出していた。観ていてとてもきついシーンだった。
それとともに、僕は「死ぬのが怖いと強く思う裕之を演じているのに、どうしてあなたは自殺してしまったのだろう…」と思った。生きたくても生きられない裕之を鬼気迫る姿で演じたあなたはもういない。
ドラマは進んで、裕之は戦地へ戻っていく。
ある日、母親のもとに裕之から手紙が届く。爆撃機でつっこむ前、家族に感謝する内容の手紙だった、結びは「ありがとう、さようなら」だった。
まるで、裕之だけでなく、三浦くん本人からの手紙のようでしんどくなった。
役者ってさ、演じているときは素の部分を出しちゃダメだと思うのよ。
べつにさ、役者がプライベートで不倫しようがなにしようがかまわないと僕は思ってるんだが、演技をしているときにそういう部分を感じさせちゃダメ。
たとえば誠実な人を演じている東出を観てるときに、「あ、でもこいつ、プライベートでは不倫してるんだな」とか思い出しちゃったら興ざめして観る気が失せるやん。
本当の役者なら、演じているときは別人になっているわけだから、その役者本人の情報を忘れさせていなければならない。役者は、他者を演じる仕事なんだから、他者を演じている間は自分を見せてはダメなんですよ。
そういう意味でいけば、今回の三浦くんは最低な役者だったと思うよ。
だって、僕自身を含めてほとんどの視聴者は、裕之だけではなくあなたを観ていたんだもの。裕之を観ているはずなのに、あなた自身をも観ていたように感じたよ。
あなたが死んで一ヶ月たとうとしているが、いまだにあなたの情報に触れるたびに、あぁ三浦春馬はこの世界にいないのか…と気づいてしまう。憑依型の役者なら、生きたくても生きられない裕之の気持が痛いほどよく分かったんじゃないのか?
それでも自殺を選んだということは、あなたを取り巻く環境が悪かったということか。戦争が裕之を隷属的な死に追いやったように、企業や社会があなたを死に追いやったと僕は解釈することにするよ。
多くの人が戦争を恨み続けるように、あなたを死に追いやった社会を恨み続けるよ。