平野啓一郎『ある男』感想

平野啓一郎『ある男』を読み終わった。

映画のほうはすでに観ていて良い作品だったので原作も読んだ。原作も同様に、すばらしい作品だった。

なんていうか、中身がかなり詰まった作品だった。ピッチャーの投げる球で、同じ150キロでも軽いとか重いとかというふうに表現されるが、この作品は重い150キロだった。ドーンってきた。そういうふうに思ったのは、価値観の違いから起こる人間関係のすれ違いの機微がすごく丁寧にえがかれていたり、作者が法学部出身ということもあって裁判の事例とか法や国家に対する解釈やものの考え方がいろいろと記されていることとかがあるのだと思う。

言葉というのはナイフのようなものであって、事象や感情など、言葉で表現した瞬間、それはキレイに切り取られてしまう。たとえば、私は悲しいという表現があったとき、こちらとしてはあぁ悲しいんだなと受け取るが、現実としては、そういうふうに切り取られる前に、いろんな感情が複雑に、ないまぜになっていることが多いわけで、ときとしてそれはうまく形容できないこともある。それを悲しいとレッテル貼りすると、悲しいだけになってしまう。嬉しいやら悲しいやらと、いろいろ言葉を積み重ねていっても、うまく感情を表現できないということはよくある。つまり、言葉よりも現実のほうが、多様で豊穣であり、言葉は現実を表現しきれない以上貧困である。

のではあるのだが、『ある男』を読んでいると、著者平野の表現が丁寧であるために、むしろ現実よりも言葉のほうが多様で豊穣なのではないかと思わされてしまう。それだけ、人間関係の機微が非常に丁寧に描かれている。素晴らしい。自分の持っている人間関係はあまりに浅いから、『ある男』の登場人物城戸の、周りとの人間関係、特に妻の香織との価値観の違いによるすれ違いや、美涼との恋愛関係になるかならないかの心理描写、その他、城戸の人間観察によるいろんな人間の心理の推測など、人間関係だけみれば、幸せかどうかはさておき城戸の人生は自分より深みのある人生だなと感じる。

城戸の人生は、端からみれば順風満帆であり誰がみても羨ましいと感じるべきものだが、ルーツが朝鮮にあることや、夫婦間の価値観によるすれ違いが、城戸を別人として人生を生き直した谷口大祐の調査へと没頭させる。まぁ誰もが、周りとの面倒な人間関係や自分の置かれている環境を投げ出して別人として生きたいと思うことはよくあるはずだ。どんなに羨ましがられる人生を生きていてもしんどいことはあるだろう。

この本は、戸籍を交換して別人の人生を生き直した人間が主題の物語だ。それは違法なことだから、表だってできないけど、もっとべつの仕方で他者といろんな属柄を交換できたら、生きやすくなるのだろうか。

たとえば、ニュースでやっていたが、ドコモが他者の味覚を体験できるスプーン?を開発した。子どもは大人よりもトマトを酸っぱく感じるらしく、ドコモの開発したスプーンを使うと大人でも子どもの味覚でトマトを食べられるようになる。

個人的には、意識の交換ができるようになれば面白いのになぁと妄想したことがある。マッチングアプリみたいなプラットフォームに登録して、交換したい人どうしで意識を交換する。妊婦や盲目の人の感覚を体感しようみたいな授業が子どものとき学校であったが、意識を交換できればよりリアルになる。ルックスがいい人とかはたぶんそれで金儲けするようになる。みんな美男美女になりたいだろうから、そういう人のリアルを体験できる機会をお金をとって体験させるようになる。北海道を旅行したい人が、北海道在住の人と意識交換すれば北海道に行く手間を省いて旅行できるようになる。もちろんこれによってルッキズムの助長などいろんな問題も出てくるだろうけど、今の自分の置かれている状況を脱したいと思う人にはなかなか魅力的なシステムにはなるだろう。そういう妄想を最近したこともあってか、『ある男』も興味深く読めたのだと思う。

みんな、自分が自分であることにうんざりしているのではないか。自分が自分だけでしかないというのはしんどくないか。この本に出てくる「谷口大祐」には2人の人間の人生が入っていて、ネットではすでにこういうのは当たり前なのだ。サトシ・ナカモトはべつに女性であってもいいし、アメリカ人であってもいい。こういうことを、ネットだけではなく、リアルにも拡大できたら世界はどうなるのだろう。これを可能にするプラットフォームを作れば、アップルとかフェイスブックみたいな巨大企業になるだろうな。