兆候 すぐれた小説家はすぐれた翻訳家でもあるということ

 今日マクドナルドで村上龍の『音楽の海岸』を読んでいると、目の前の席に高校生の女の子がやってきた。彼女はショルダーバッグをかけていて、そこには、「It's a sunny day. I am feeling good. Enjoy this moment.」と書いてあった。

 僕は受験生の気分になって訳をしてみた。「今日はいい天気だ。私は気持ちがいい。この瞬間を楽しもう」と訳した。

 まぁテストならこれで〇がもらえるだろう。この訳で問題ない。しかし僕は、高校時代の友達が、英語のテストでしゃれた日本語訳ができたと言って自慢してきた日を思い出した。僕は別の訳を考えた。

 僕は、Enjoy this momentに「今を生きろ」という訳を与えた。その訳は瞬間的に思いついた。なんとなくそういう訳がいいと思ったのだ。あるいはそれは、自分に向けた言葉なのかもしれない。この訳で〇がもらえるのかは分からないけれど、僕はそれなりに気にいった。

 

 昔テレビの対談番組に、小説家のよしもとばななが出ていて、彼女は「自分は登場人物の言葉を翻訳している」と言っていた。

 彼女は小説を書くのだからもちろん小説家なのだけど、本質的には翻訳家なのではないかと僕は思った。彼女は、言葉を持たない者、それは死者であったり、霊であったり、あるいはネコであったり、そういう者の言葉にならない声を、万人が分かる言葉に置き換える仕事をしているのだろう。

 そういう仕事は、選ばれた人間にしかできない。

 

 村上龍の『音楽の海岸』を読んでいると、どうしてこんなことを知っているんだ?という表現にしばしば出会う。

 

アミは、恥に打ち震えているのだ。恥にまみれ、恥の意識に負けそうになっているアミを見ていてケンジは勃起した。ストリッパーを見て男が興奮するのは、彼女達が指で開いて晒け出す毛や亀裂や穴や内臓のせいではない。ストリッパーがそんなことまでして、恥を捨てるところを見て興奮するのだ。                                 P126  

 

 村上龍はストリッパーをよく観に行くのだろうか、あるいはストリッパー好きの友人でもいるのだろうか。村上龍はどうしてストリッパー好きの男の生態を知っているのだろう。

 他にも、なんでこんなことやあんなことまで知っているのだろうと言う表現にしょっちゅう出会う。そしてそれはこの作品だけに限らず、他の作品も同様だ。

 

 僕には、村上龍が何人もの人間の人生を生きてきたように思えるのだ。

 でも現実的にそれはありえないから、彼はよしもとばななと同じ翻訳家なのだと僕は結論した。つまり、村上龍の心の内には、ストリッパー好きの男がいて、彼はその男の声を翻訳しているのだ。そう考えるほうが合理的である。

 彼自身があんなことやこんなことまで知っているのではなく、登場人物が知っているのだ。彼はその登場人物の語りに耳をすませ、それを翻訳し物語として描いている。

 ストリッパー好きの男は、村上龍の心の中にいるが、ストリッパー好きの男と村上龍はもちろん別々の人間だ。同じようなかたちで、村上龍の中には、色情狂いの中年女や、マザコンの金持ち変態青年もいる。

 

 だからすぐれた小説家というのは、すぐれた翻訳家であるということになる。

 ここでの翻訳家というのは、英語を日本語に、日本語をロシア語に翻訳するというような一般的な意味での翻訳家ではなくて、よしもとばななのような、登場人物の声を読者が分かる言葉に置き換える仕事をする人という意味での翻訳家である。

 作家の、登場人物が勝手に動き出すという嘆き?は、登場人物は作家が創作した存在ではないのだから、ある意味当然のことなのだ。

 

 

 僕は、マクドナルドで「今を生きろ」という訳を思いついた後、これは何かの兆候だと思った。学校の模範解答的な訳ではなく、自分の訳が出てきたことは、何かの兆候なのだ。

 この訳がすぐれたものであるかは分からないが、少なくとも自分オリジナルの訳である。

 僕は少なくとも翻訳家になったのだ。そしてこの兆候は当たっていると僕は思う。