前回から5年か6年ぶりに再読した。
村上作品は何作品か読んできたが、『海辺のカフカ』の読後印象は一番悪かった。
数年前に読んだとき、この作品はすごくご都合主義な感じがしたのだ。
それが不自然な感じがして、何だこの作品はってな感じで読み終わった。
ただ、作中に出てくる星野というヤンキーな青年がナカタさんと呼ばれるおじいちゃんに会ったことで、これまで縁遠かったベートベンを聴き始めるところだけが強く印象に残った。
いい印象を持っていなかった『海辺のカフカ』だが、なんとなく、ふともう一度読みたくなった。どうしてかは分からない。で、昨日読了した。
不思議なもので、前回とは印象がガラっと変わっていた。
物事というのは、大きな流れのなかで動くものであって、それは個々人にはどうすることもできないことをこの作品で感じた。
以前は作家が自分の都合に合わせて物語をおしすすめているように感じて辟易したが、今回は、登場人物だけでなく作家自身さえも物事の流れのなかで物語が紡がれているように感じた。
人生というのは、自分の意志でどうにかなるものではなく、流れのなかで自分の行く末が決まってしまうものである。フランツ・カフカの不条理小説なんかが体現しているように、『海辺のカフカ』もまたある意味では不条理小説なんだろう。
人生はよくマラソンや登山にたとえられるが、自分は川下りのようなものだと思っている。
川という大きな流れに人はあらがうことはできない。オールをこいで左や右の岸に移ることはできても、海に向かうその流れ自体に逆らうことはできない。
マラソンも登山も自分の意志が大きな意味を持つ。どちらも自分の意志がなければ始まらない。苦しい時間帯があって、それを耐えしのんで突き進むことでゴールに近づくことができる。どちらも自分の意志が重要なのだ。
川下りは違う。自分の意志は重要ではない。何もしなくても、意志しなくても、いやおうなしに人生は流れていくのだ。大事なことは流れそのものを受け入れること。物事の流れは自分の意志や能力ではどうすることもできない。ある意味では諦めることがもっとも必要なことなのだ。
これまでの自分の人生を振り返ってみるにつけ、自分の意志でどうにかしてきたというより、流れに身を任せていたらこうなったという感じがある。流れのようなものを感じる。
そういうことをここ最近感じて、その感じが『海辺のカフカ』を再読してみようかという気分にさせ、作品が自分の心にすっと入ってきたということなのかもしれない。