『眠りつづける少女たち』を読んだ感想

『眠りつづける少女たち』を読んだ。

新聞やネットの書評とかで紹介されていて興味を持った。副題が「脳神経科医は‹謎の病›を調査する旅に出た」とあり、勝手に小説かと思っていたがそうではなかった。

最初の章で、スウェーデンの眠りつづける少女たちの話が扱われている。難民申請をしたがなかなか受理されず途方にくれる家族の子どもたちに、あきらめ症候群と呼ばれる症状が現れる。ベッドの上でずっと眠りつづける。それが何年もつづいている。難民申請が通り状況が改善されると起き上がる子どもたちもいるという。こういうことが現実で起こっているというのはなんだか奇妙だ、小説じみている。

これが、スウェーデンの一部の地域で集団発生的に起こったから、わけが分からない。そういうことで脳神経科医の著者が調査に赴くことになった。著者はこれが、脳神経の異常によって起こったのではなく、子どもたちを取り巻く社会環境が与える過度のストレスがもたらしたと考えた。実際に血液検査など、様々な検査を行っても異常はなかったのだ。

これを読んでいて、自分は動物の冬眠を想った。動物が冬に穴蔵で眠りつづけるけるのも、冬になるとエサが取れなくなるからだ。エサがないのだから動き回っても仕方ない、だからじっとしてエネルギーを使わないようにする。

眠りつづける少女たちも、ある意味冬眠しているようなものではないか。難民申請が通って状況が改善される春となるまでベッドの上で眠りつづける。外にいれば過度のストレスがかかり耐えられない、だからストレスとなる状況を、眠ることによってシャットアウトする、これは身体的反応としては理にかなうものだと思う。人間だって動物なのだから。

もっとも、人間の場合は学校や会社に通うことが通常なわけで、それができない状態だから、病や障害というレッテルを貼られるのだ。

だから、日本の子どもたちの不登校も、長年マイナスのレッテルを貼られ続けてきた。でも自分が思うに、頭痛とか腹痛とか制服を着られないという身体反応は、正常だと思うのだ。学校という空間が過度のストレスになるのなら、そこに行かないようにするというのは正しい。それはちょうどお腹がグぅとなったからランチにするとか、便意や尿意を感じたからトイレに行くのと同じなのだ。むしろ、頭痛や腹痛といった身体のシグナルを無視し続けると、強制シャットダウンが起こる。社会人の場合は働かないといけないからこうしたシグナルを無視し続ける、そうしてある日身体が動かなくなり病院に行くとうつ病とか適応障害だとか診断されるのだ。だから、不登校の子どもは、身体のシグナルをちゃんと受け取ることができたということであり、そこは褒めてやらないといけないのである。そして社会は、学校に行かせようとするのではなく、学校とはべつのシステムで動く仕組みを作らないといけない。

東アフリカのコモロ社会では、病はジニという精霊がもたらすと考えるらしい。そして、病にかかった者はジニと結婚し、集団に受け入れられる。医学におけるグローバルスタンダードは心身二元論だ。上の眠りつづける少女も身体には何の不具合もないのに寝たままだから、謎の病なのだった。だからこそ著者は心身二元論を批判する。文化的な要因、社会的な要因が精神的苦痛となり、それが身体の症状として現れるのだ。そして、心身二元論であるがゆえに病は個人のものとして扱われ、その個人は集団から隔離され隠される。コモロとは真逆なのだ。もし、コモロのような社会であれば、つまり集団が病を受け入れる社会なら、ベッドの上で眠りつづけるといった身体反応も起こらないのかもしれない。もちろん、医学のグローバルスタンダードも退けられるべきものではなく、それぞれが足りないところを補うものであるなら多くの人が救われるだろう。

イタリアでもエクソシストがいて実際に活躍しているし、日本でも高知に犬に憑かれた人を祓う寺があるらしい。こういう文化を医学は否定するわけだが、著者の本によれば、どうしたって医学の範疇では説明できない病があるわけで、このような文化は絶対に必要なのだ。実際に救われている人がたくさんいるのだから。

社会的なストレスによって集団発生的に生まれる謎の病というのは、人間特有のものだと思う。それだけにすごく興味深い事例を紹介してくれる一冊だった。