聖書 知恵の実 失楽園 解釈メモ

アダムとイブが蛇にそそのかされて知恵の実を食べ、神の怒りに触れ楽園を追放される。知恵の実を食べたアダムとイブは裸でいることが恥ずかしくなり、葉っぱで身体を隠す。人間は必ず死ぬようになり、男は労働の苦役を、女は出産の苦しみを味わわなければならなくなった。こういうことが聖書には書かれている。

 

聖書ではすでにシステムの萌芽が描かれている。葉っぱは葉っぱでしかないが、人間はそれを身体を隠すための道具として扱った。知恵の実の知恵とは何か。それは、自然のものを自らの役に立つ道具として扱う技術のことを指すのだ。

この世界にある道具はすべて自然から生み出されたもので、それは人間の強化された手であり足である。ハーバーマスは、歴史を道具という観点から再構成すると、最初は手や足といった機能が、次に目や皮膚といった機能が、最後に中心制御装置(脳)の機能が強化され代替されると述べる。

システムというのは結局のところ、人間の肉体的諸機能が強化されたかたちで外部委託されたものであるといえる。車やシャベル、あるいはメガネ、そしてAI。これらはすべて人間の手や足、目、脳の機能を強化するものである。

そして、人類の歴史を道具という観点でみるなら、それは道具の発展の歴史であり、労働というものは本質的に道具を間断なく発展させる行為であるといえる。そしてそれは人間の生存確率を飛躍的に高めてきた。

ユヴァル・ノア・ハラリは、こうした人類の歩みの先にホモ・デウスがいるという。人類は神になるのだ。楽園から追放され、労働という苦役を与えられた人間は、労働によって道具を発展させ、神に一歩一歩近づいていったわけである。

これはちょうど、ニーチェツァラトゥストラで描かれた大道芸人のようである。綱渡りをする大道芸人は、人類の歩みのメタファーである。人類とは、猿から超人へのプロセスである。もっとも、ニーチェのいう超人は、ワグナーのような芸術的・創造的な人間のことをさすらしいが。

楽園を追放された猿は、超人へのプロセスを歩む。とはいえ、このプロセスは実は一本道ではない。人間は、道具へと肉体的諸機能を外部委託することで、自らの肉体を自らの手で解体し続けている。土中にいるモグラの目のように、使わないものは退化するわけで、肉体的機能を外部委託し続ける人間の身体は、歴史を通して劣化し続けてきたのである。

つまり、道具は人間に二重の道を歩ませる。神への道と、形骸化した人間への二本の道を。