日本語が世界を平和にするこれだけの理由

 知り合いに薦められて。

 

 面白かった。日本語と英語などの欧米語の言葉の違いについて。

 

 日本語圏では人に会ったら「おはよう」とか「こんにちは」と言い、英語圏では「How are you?」とか「How do you do?」という。何が違うかと言うと、日本では言葉の中に「人」が使われない一方、欧米語では「you」や「I」などの、人が必ず入ってくること。

 著者はここから話を展開して、日本語は共感を軸にした言語で、英語などの言語は自己主張や対立を軸にした言語だという。

 

 「おはよう」は「朝がはやいですねぇ」という相手との共感から生れた言葉であり、「How do you do?」は「あなたはどうしてるの?」と相手の行為を尋ねる対立から生れた言葉である。

 

 日本人は相手の目をじっと見て話すことを失礼だとみなすが、これは日本ではお互いが見合う対立の関係ではなく、一緒の方向を向く「共視」の関係にあるからである。だから相手の視線に恐怖を抱く視線恐怖症の人が多い。

 一方で、欧米人は相手の目を見ずに話すのは失礼であり、一緒の方向を見る共視の関係ではなく、相手と向かい合う対立の関係にある。

 

 こういう件を読んでいて、言語の構造や特徴が振る舞いや思考、文化を規定しているのは実に興味深いことだと思った。

 そして疑問に思ったのは、このような言語の構造がどのようなプロセスを経て形作られてきたのかということ。

 

 日本人とか欧米人とか、そういうふうに分化する前の、人類に言語の萌芽が芽生えたあたりのころは、たとえば「キッー!」という音に「敵が来たぞ!」という意味を込めた、人間以外の動物もやっている単純なやりかたしかなかったと思う。

 人間の言語がいかにして、日本語のような共感を軸にした言語や、英語などの対立を軸にした言語のように、多様化されていったのか。

 

 さらにいえば、もともとの振る舞いかたから言語の特徴ができていったのか、あるいはその逆なのか。日本人のもととなる民族にもともと共感をベースにした振る舞いがあったから日本語のような共感を軸にした言語構造ができたのか、あるいはその逆なのか。卵とニワトリみたいな話である。

 

 川端康成の『雪国』の件も面白かった。

 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」

 冒頭の有名なこの一文には主語がないが、僕も含めて多くの日本人は、トンネルの先にある雪国を電車の中から見ている光景をイメージする。

 一方、欧米人はこのようなイメージをほとんど抱かない。著者が、教え子である日本語学校の生徒たちに絵を描かせると、トンネルから出てくる電車を真上から見下ろしているという神の視点からの光景を描くらしい。だからこそ、この一文の英訳に、「The train」を据える。英語は客観的な言語なのだ。興味深いね。

 

 なるほどねーとうなづく箇所が非常に多い本だった。