人生とは何か

昨日夜遅くに温泉から帰ってきて寒いのですぐに寝袋にくるまりストーブの明かりを視界の端でとらえながらぼーっと考えていた。いや、考えるというよりはむしろ脳みそに浮かんでくるさまざまな言葉を観ていた。いろいろ浮かんできては消えていき、浮かんでは消えていったそのさまざまな言葉のなかに、この前読んだ『フラットランド』の次元の話から人生とはつまるところ何なのかというものがあった。一晩置いても記憶のなかにとどまっていたので忘れないうちにここに記しておきたいと思う。

 

『フラットランド』は次元をテーマにした物語で、この前書いた記事にすでにあらましは書いてるので省略する。

matsudama.hatenablog.com

 

球はフラットランドの住人に球であることを示すために、フラットランドを上下する。フラットランドにはさまざまな直径を持った円が現れる。最後には点となって、フラットランドから消える。球はフラットランドの住人に、球というのは無限の円が集合したものであると説明する。

 

このくだりは本当にたくさんの啓示を自分に与えてくれた。

2次元世界の住人が3次元世界を理解するためには、「時間」や「運動」といった概念が必要なのだ。球は2次元世界では「円」として認識される。2次元世界では球として認識されることはない。2次元世界の住人は、フラットランドに現れるさまざまな直径を持った円を統合することによって球を想像しなければならない。そのためには、今見ている円と、さっき見た円、これから見る円を統合する必要がある。ここに時間という概念が現れる。球はフラットランドを上下する。これがつまり運動だ。運動というのはある地点から別の地点へ移る行為であり、そこには時間軸が必要とされる。これはべつの次元どうしでも同じだ。1次元世界はラインランドと呼ばれ直線の世界を意味する。1次元世界の住人が2次元世界を理解するためにも、時間と運動の概念が必要になる。

 

つまり、自分が今いる世界の一つ上の次元の世界を想像するために「時間」と「運動」の概念が必要なのだ。で、われわれが今いる世界は空間として4次元(空間の3次元に時間1次元を加えたものではないことに注意!)である。しかし、局所的にわれわれが存在しているのは空間として3次元である。これは地球が球体なのに、その局所空間は平面であるのと同じことなのだ。3次元空間にいるわれわれ人間が、4次元であるこの世界を理解するために「時間」と「運動」という概念を作ったのである。

 

作った、というのがミソである。「時間」や「運動」は存在しているのではなく、お金とか国家みたいに、人間が便宜的に導入した概念なのである。球はあたりまえだが球として存在していて、円ではない。球は一つ下の次元であるフラットランドでは「円」として映ってしまうため、フラットランド人が球を理解するためには便宜的に「時間」と「運動」の概念を作りだす必要がある。われわれの世界もこれと同じで、3次元にいるわれわれが4次元世界を理解するためには「時間」と「運動」という概念が必要なのだ。

 

 

3次元世界にある球は球として存在していて、そこに時間や運動はない。球は次元が一つ下のフラットランドでは円として映る。球はさまざまな直径を持った円の無限集合である。

 

これを人間に置き換えて考えてみる。

4次元世界にいる人間は4次元人間として存在していて、そこに時間や運動はない。次元が一つ下の3次元世界では3次元人間、つまりわれわれとして映っている。これは4次元人間がさまざまな年齢の人間の無限集合だからだ。球と円がべつのかたちをしているように、4次元人間と3次元人間(われわれ)はべつのかたちをしている。

 

さてここから本題だ。人生とは何か。

例によって球と円のアナロジーから考える。球がフラットランドの上から下へ通り抜けていく情景を思い浮かべて欲しい。球はフラットランドに上から近づき接する。このとき球はフラットランドに点として存在している。そこから小さな円になり時間がたつにつれ少しずつ大きな円になっていく。そして半分までくると一番大きな直径を持った円になる。その後は少しずつ円が小さくなっていく。そして最後再び点となって下に抜けていく。まるで月の満ち欠けのようだ。

 

勘のいい人はすでに分かっているはずだ。

4次元世界にいる4次元人間である自分が3次元世界に向かっているとする。そして第4の次元から3次元世界に接する。このとき3次元世界に点として、すなわち受精卵として存在している。ここから少しずつ成長していき赤ちゃん、子ども、大人へと大きくなっていく。そして一番大きくなったあと、今度はだんだん衰えていく。そして最後死を迎え3次元世界から姿を消す。これが人生である。第4の次元から3次元世界に接したときをわれわれは「誕生」と呼び、そして再び接している状態から3次元世界を離れた瞬間を「死」と呼んでいる。

 

しかし考えてみて欲しい。

球は2次元世界に円として映っているときだろうと球である。フラットランドにはさまざまな大きさを持った円として映っていてもやっぱり球である。球は球のままである。

人間も同じである。4次元にいる自分は相変わらず自分である。3次元世界においてさまざまな年齢の自分、髪がふさふさの自分、はげた自分、結婚した自分、離婚した自分として存在していようと、4次元にいる自分はまったく変わらないのだ。老いもしないし、はげもしない、結婚も離婚もしない。3次元世界の意味合いにおいての誕生もなければ死もない。

 

えーつまんないと思ったそこの諸君、それはそれで間違っている。

例によって球と円のアナロジーで考えてみる。球は球だが、球は円の無限集合である。球をキャベツみたいに無限に千切りしていくとさまざまな直径を持った円が現れる。これと同じで、4次元の自分をキャベツみたいに無限に千切りしていくと、いろんな年齢の自分も、ふさふさの自分も、はげた自分も、結婚した自分も、離婚した自分も現れるのだ。つまり、4次元の自分はあらゆる自分がひとつに統一された状態なのである。4次元の君たちはあらゆる酸いも甘いも知り尽くしているのである。魂!

 

実はこれが量子力学なのである。

量子力学というのは、素粒子といったミクロの物質について研究する物理学の一領域のことである。われわれも量子の集合なのだが、量子は常識では考えられないようふるまいをしている。量子は、粒子であると同時に波のような性質を持っている。スクリーンに向かって量子を飛ばすと、量子は波のように動いているのに、スクリーンに当たった瞬間それは一点の粒子の痕跡を残して消えてしまうのだ。この現象を解釈するのに、物理学者は長年悩んでいる。この現象の解釈にはいろいろあって、ひとつはコペンハーゲン解釈というのがある。これは波のようにうごいている量子がスクリーンに当たる瞬間、「収縮」して粒子になるという解釈だ。しかしこの解釈には批判があって、この現象を解釈するための方程式であるシュレディンガー方程式に「収縮」はなじまないのである。

もう一つは多世界解釈といってこれはパラレルワールドの根拠となっている解釈である。これは波としてふるまっている量子はスクリーンに当たった瞬間、可能性のあるすべての世界に分かれるというものである。われわれが存在しているのはそのうちの一つであるというのだ。しかしこれにも批判があって、それ以外のすべての世界は確認できないのだからこの解釈が正しいのかそうでないのか判別できないというものである。結局、量子は粒子なのか波なのか、アインシュタインでさえ分からなかった。

 

例によってこれも球と円のアナロジーで考えてみる。

量子を球、スクリーンをフラットランドだとしよう。球をフラットランドに向けて発射する。球はフラットランドに円としての痕跡を残す。球は円の無限集合だった。つまり可能的なすべての円である。これで量子が粒子なのか波なのか明らかになった。量子は粒子であり、同時に波である。これが答えだ。コペンハーゲン解釈の、波がスクリーンに当たる瞬間に収縮するというのは正しくない。すでに諸君は分かっている通り、波はスクリーンに当たっても波のままである。見え方が異なるだけなのだ。球がフラットランドでは円として映るのと同じことなのである。球はフラットランドでも球として存在しているがフラットランドの住人には円に見えるように、量子は波として存在しているが、3次元世界のわれわれには粒子に見える。そして、多世界解釈も間違っている。波はスクリーンに当たった瞬間、可能性のあるすべての世界に枝分かれするのではない。波はスクリーンに当たっても依然として波として存在しているのだ。枝分かれはしない。パラレルワールドは並行世界として語られるが、並行はしていない。球がフラットランドに当たっても無数の円に枝分かれしないのと同じことだ。フラットランドでも球は依然として球なのだから。

 

プラトンは『国家』で、洞窟の比喩について語っている。

洞窟の中で囚人は鎖につながれていて、後ろでは火が燃やされている。囚人が見ているのは火ではなく、洞窟に映るその影である。肉体は魂の牢獄であり、死後魂はその牢獄を出てイデアの世界へ到達する。

 

見事なメタファーだ。信じられない。ソクラテス、あるいはプラトン量子力学を知るはずがないのに、何もかもこのメタファーで説明してしまっている。そういえば、カルロ・ロヴェッリもナーガールジュナの空論を使って量子力学を説明していたのだった。ナーガールジュナも量子力学を知るはずがないのに。結局のところ、「見者」に知る知らないは関係ないのである。

 

魂は4次元で、可能的なすべての自分が一つに統一された状態にある。先に述べた4次元人間というのはつまるところ魂のことである。魂が3次元世界を通過しているとき、われわれのようなかたちとして存在しているわけだ。われわれは所詮、魂が3次元世界に映された影にすぎない。球がフラットランドでは円として映っているように、波としての量子がスクリーンには粒子として映っているように。3次元世界にあるわれわれ、フラットランドに映る円、スクリーン上の粒子、これらはみんな洞窟に映る影である。われわれはプラトンが言うように洞窟の影を見ているのであって、火を見ているわけではない。でもそれは仕方がないのだ。フラットランド人が球を見ることができないのと同じ理由である。そして、死後われわれは肉体という牢獄を離れイデアの世界に到達する。ただこれはすばらしいことでもなんでもなく、たとえるなら球がフラットランドを通り抜けるだけの他愛のないことだと思う。球は常に球であり、魂は常に魂である。それがこの3次元世界ではわれわれのような肉体に見えるにすぎないし、肉体はべつに牢獄でもなんでもない。まぁプラトンには肉体が牢獄に見えたからそう述べたんだろうけど。

 

ポアンカレ予想をもとにすれば、4次元にある単連結の3次元閉多様体である魂の局所部分がわれわれなのである。そしてその魂のかたちは、サーストンが予想したような8種類のうちのいずれかだということになる。この8種類のひとつにクラインの壺とよばれるかたちがあるのだが、個人的に魂のかたちはこのクラインの壺と同相なのだと思う。

 

人間に火を与えたのはプロメテウスで、プロメテウスは天上から火を盗んできたのだった。火は天上にあったもので、だからこそイデア界は天上にある。しかし、囚人が見ることができるのは火そのものではなく、その影にすぎない。われわれが見ている世界もまた、火ではなくその影なのだ。

 

今日は朝起きて隣町に行ってPCR検査を受けてラーメンを食ってきた。いつもは通りすぎるだけだったその町には何もないと思っていたが、ミシュランを獲得したラーメン屋があり、古びた温泉街があった。駅前のとおりは閑散としていたが、散歩のコースとしてはとても面白かった。帰ってきてこの記事を書こうと思って書き始めたが、書き始めると昨日よりもはるかに充実した言葉があふれてきた。常識的には、考えたことを書くと思いがちだが、そうではなくて書くことによって考えているのだ。さらにいえば、書くことによって自分が何を考えているのか知るのだ。昨日の夜、この記事に書いたことの萌芽を観ていた時、自分は天才だと思った。7年前と同じことが自分のなかで起こりつつある。あのときと状況が似ている。だんだん書けるようになってきて最後すごいのが出てきた。あのときからずっとまたこれを経験したいと自分なりに準備してきた。他のすべてを犠牲にしてでも再び経験したい。もう来ないかもしれないと思いつつも努力してきた。待ったかいがあった。今年はそれがやってくると思う。