なぜ心は見えないのか

ずっと不思議だった。「心はどこにある?」と訊かれたら、われわれは胸を指したり、頭を指したりする。つまり、われわれは心は自分自身の中にあると思っている。しかし心と呼んでいるそれはわれわれの身体を解剖してみたところで見つかりはしない。これが不思議だった。心はわれわれのなかにあると実感しているのに、それは身体のどこにも見当たらないのだ。

 

都築卓司の『四次元の世界』を読んでいる最中に自分自身は了解した。

 

心はわれわれの中にあるのにどうして見えないのか?それは心が4次元の存在だからである。われわれには第4の次元は知覚できない。だからこそ心は目に見えないのだ。そしてわれわれは、というかこの世界そのものは心が射影された空間なのだ。

 

おそらくわれわれが目にしているこの世界は心が3次元化された世界である。そしてそれはわれわれの中にある心と同じものである。これは4次元立体をむりやり3次元に押し込めた図を見たときにひらめいた。

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wikipediaより引用

これが4次元立方体を無理やり3次元に押しつぶしときに描かれる図である。この4次元立方体は8つの立方体からなっていて、3次元化するときに1つを取り除いて押し込んでいる。では残りの一つはどこかというと、まわりの6つの面に貼り付いているのである。イメージがとても難しいので、次元を一つ下げて説明する。

 

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これは3次元立方体であるサイコロを無理やり2次元に押しつぶした図である。サイコロは6つの面で構成されているが、2次元に押しつぶす際に6の面を取り除く必要がある。だから上の図に6の面は見えない。では6の面がどこにあるかというと一番外側の4つの辺に貼り付いているのである。2・3・4・5の面の外側の辺である。6の面というのはつまり、この一番外側の大きな正方形(2345の外側を辺としている正方形)を裏返したものである。

 

先ほど、われわれが目にしているのは心が3次元化された世界で、それはわれわれの中にある心と同じものである、と書いたが意味が分かっただろうか?

サイコロの1の面と6の面は同じである。大きな正方形に囲まれている1の面とその大きな正方形の外側に貼り付いている6の面は同じである。1の面は心であり、6の面がわれわれが目にしている世界である。これの一つ次元を上げたものがわれわれにあたる。4次元の心を無理やり3次元に押しつぶしたものがわれわれである。大きな立方体が自分自身であり、その大きな立方体の中にある小さな立方体がサイコロの1の面にあたり、それが心である。そして大きな立方体の外側に貼り付いている立方体がサイコロの6の面にあたり、それがわれわれの見ている世界である。われわれの中にある心はわれわれが見ている世界と同じ空間であるが、あくまでもこれは4次元存在であるわれわれを無理やり3次元に押し込んだものである。本質は4次元にある。

 

心は4次元であり、心を無理やり3次元に押し込んだものが上の立方体である。勘違いしないでほしいが、心のかたちが立方体であるわけではなく、あくまで数学的なイメージである。この3次元に無理やり押し込まれたものがわれわれである。われわれの中には心がある。そして外側には世界がある。

 

自分自身も含めてこの世界そのものは心を無理やり3次元に押し込んだものである。べつの言い方をすれば、4次元空間に存在する心が、3次元空間に映している射影である。われわれが目にしているものはすべて心の影である。

 

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これはルビンの壺である。壺を見ているとき、向かい合っている人間は見えなくなり、向かい合っている人間を見ているとき壺が見えなくなるという心理学でよく説明されるあれである。

matsudama.hatenablog.com

 

上の記事でもルビンの壺を使って世界認識について説明したが、それをおしすすめて新しい世界認識を提供しよう。われわれの世界認識というのはつまるところこういうことである。今、目のまえに壺があるとする。われわれは、壺は壺自体で存在していると思っている。しかしそれは違う。壺は4次元の心によって射影された影であり、われわれはその影を知覚しているのである。つまり、壺は向かいあう二人の自分自身(4次元と3次元の自分)の「関係」によって認識されるのである。この世界のあらゆる現象は、二人の自分自身、光と影のあいだに生成されるのだ。

 

このような世界認識を得ると、何が明らかになるのだろう。

それはおいおい考えていきたい。