現実の想いとリンクした夢だった

 

 昨日仕事でお世話になっている人に「今度またみんなでピザ窯でピザ作って食べようと思うんだけどどう?」と聞かれて、断った。交友関係が拡がるのを恐れたからである。

 

 自分は交友関係が拡がっていくのを恐れている。忙しくなるからだ。忙しいのは恐ろしい、「忙」という漢字を見れば分かる通り、心が亡くなっていると書いて「忙」と読むからだ。この漢字を表した中国人は本当に天才だと思う。

 

 自分が生息しているのはド田舎だが、ド田舎の人間は忙しい。田舎は何もないと思っている人が多いが、何もないと思っているのは何もできない人間である。原っぱを見て何もないと言っているのと同じなのだ。原っぱでは、鬼ごっこもできるし、缶蹴りもできるし、サッカーも野球もできる。しかしそこに滑り台やブランコがあれば、滑り台であれば滑ることしかできないし、ブランコであればこぐことしかできない。遊具がある公園というのは実は遊びが制限された空間なのである。遊具がある公園というのはもちろん、都会のメタファーである。ということで田舎というのは、何でもできる人間にとっては最高に遊べる空間なのである。で、田舎のじいちゃんというのは何でもできる人が多いのだ。

 

 自分も田舎のじいちゃんのように何でもできる人間になりたいが、今の生活リズムを自分は気に入っている。だから交友関係が拡がって、いっしょに狩猟をやろうとか、いっしょに町づくりをしようとなって忙しくなるのはいやだ。そういうことでピザづくりを断った。

 

 

 昨日見た夢。

 夢の中で自分がいたのは大学の卒業式だった。晴天だった。どこか大きなホテル、下から見たら横浜のランドマークタワーみたいな形をしたホテルの大広間にいた。

 大学の卒業式なのに、なぜか中学のときの大して仲の良かったわけでもない同級生がいた。いっしょに行動していたが自分は孤独だった。

 ホテルを出て自分は一人帰ろうとしていた。ホテルの周りも多くの卒業生がいて、みなそれぞれの仲間と談笑していた。そういった島のまわり縫いながら自分は一人孤独に帰路につこうとしていた。

 そしたら電話がかかってきた。今度は高校のときの同級生で「クラスのみんなが待ってるよ」と言った。自分は「そうじゃないんだよなぁ」と思ったところで目が覚めた。

 

 

 なにが「そうじゃないんだよなぁ」というと、これもまた交友関係が拡がってしまうからなのである。

 せっかく帰ろうとしていたのに、同級生たちに会いに戻ったら忙しくなる。誘ってくれのは嬉しいが、自分のことはほうっておいてほしい。

 コロナ禍になって同窓会が中止になっているそうだが、自分としては同窓会がなくなるのはうれしい。自分は断るのが下手くそなので、コロナという伝家の宝刀が手に入ったのは喜ばしいことだ。

 

 

 それにしても夢は不思議だ。

 自分の記憶がごちゃまぜにされたごった煮みたいなものが提供される。そのごった煮はちゃんと料理になっていて、それは現実の想いを夢のなかで追想させる。

 人間の創造主は一体何のために、こんな機能を人間に埋め込んだのだろうか?