『マトリックス レザレクションズ』は二つの意味でトリニティを回収した

 

 

大作の続編は往々にしてコケるものだが、『マトリックス レザレクションズ』はコケるどころかビルからビルへジャンプしていた。個人的にマトリックス三部作はあれで物語として完璧に閉じたと感じたので、どうやって続きを作るんだろうかと続編があると知ったときからワクワクしていた。最近の映画、あるいは映画に限らずとも、ルッキズムフェミニズム、さまざまな表現の規制によって、製作陣は作品づくりにおいて多方面に配慮しなくてはならなくなっている。それは表現の自由度をかなり制限するということであり、おそらくそのせいで『スターウォーズ 7・8・9』はなんだかなぁ…という作品だった。しかし『マトリックス レザレクションズ』は違った。配慮しつつも、コアなファンを含めて多くの人を納得させる映画だったと思う。自分は三部作を何度も観ているが、今回の作品もまた、映画館に行って観る価値のある映画だった。

 

物語はデジャヴから始まる。トリニティ?が部屋で追いつめられるシーンから。映画はループしているようだ。そして、アンダーソン君はマトリックスのなかで生きている。三部作はどうやら世界的なゲームデザイナーであるアンダーソン君が作ったゲームだったらしい。しかしゲームを作ったアンダーソン君は本当にゲームなのか疑っている。ゲームなのか、自分の経験なのか分からなくなって錯乱し心理セラピストのもとに通っている。そこで処方された「青いピル」を飲み続けることで「正気を保っている」。

 

こういう件が最初のほうで続くのだが、ウォシャウスキー監督が見事なのが、三部作を観た人たちの意見や感想がいろいろ紹介されているところだ。映画のなかで三部作はアンダーソン君が作ったゲームとして扱われていて、マトリックスのなかの住人(乾電池化されている人たち)がゲームをプレイした感想を言い合っている。「哲学的だ」とか「小難しい」とかいろいろ…おそらくその意見や感想は実際にウォシャウスキー監督が聞いたものだと思う。そのなかの一つに「ネオと機械はグルだったという噂があるがあれは嘘だ」というものがあった。

 

この感想を言った人がグルだと思った理由は、『マトリックス』に、ネオがモーフィアスから受け取った赤い薬を飲んだあと、ポッドの中から救い出されたシーンがあったからだと思う。よくよく考えたら奇妙ではないか。ネオが機械の敵なら、そもそも最初からポッドのなかで生かしておくはずがないからだ。だからネオと機械がグルだというのは合理的な解釈だといえる。個人的な解釈ではこれは半分は当たっていると思う。ネオと機械はグルというよりはむしろ、機械にとってネオはワクチンのようなものだと思う。ワクチンは弱められたウイルスのことであり、このワクチンを定期的に打つことで機械はアップデートされマトリックス世界は安定する。ちょうどわれわれが今、コロナワクチンをうって肉体をアップデートしコロナの重症化リスクを抑えているのと同じだ。ウイルスは変異するのでワクチンはその都度開発され、われわれは定期的に肉体をアップデートする必要がある。『マトリックス リローデッド』のアーキテクトが言うように、ネオは六回目のワクチンなのである。エージェント・スミスが言うように、人類はウイルスだが、より正確に言えば機械にとって人類は単なるウイルスではなくワクチンなのである。だからこそ、機械はザイオンを攻撃しウイルスである人類を殺そうとするが、同時にネオをポッドのなかで生かしておいたのである。

 

アンダーソン君は現実と妄想のなかで混乱した生活を送っているが、そこにモーフィアスが現れる。アンダーソン君は再びモーフィアスたちの助けを借りて現実世界へと戻る。ちなみに、マトリックス世界から現実に移る途中、富士山のふもとを走る新幹線がバイパスとして使われる。監督は日本が好きなんだろうか。三部作はマトリックス世界でゲームとして扱われていたが、本当はゲームではなく記憶だった。『レザレクションズ』では、ネオだけでなくトリニティもポッドの中でマトリックス世界を生きている。ネオは救い出されたが、トリニティはマトリックス世界のなかで家族を持ち幸せに暮らしている。ネオは再びトリニティを救いにマトリックスの中へ入る…

 

『レザレクションズ』では、エージェント・スミスはネオのビジネスパートナーになっておりネオたちを助けてくれることもある。本当の敵は実はアンダーソン君に青いピルを処方していたセラピストだった。セラピストは実はレボリューション後の新しいマトリックス世界を設計した後任のアーキテクトで、マトリックス世界を安定させるために、死んだネオとトリニティを蘇生させたのだった。新しいマトリックス世界で、アンダーソン君は世界的なゲームデザイナー、トリニティは夫と子どもとともに幸せに暮らす母親という設定になっていた。かつて愛し合ったネオとトリニティはカフェでたまに会うだけの知り合いだった。アーキテクトによれば、この距離感がもっともマトリックス世界を安定させるらしい。

 

話がそれるが、マトリックス内でアンダーソン君が現実と妄想のなかで苦しんでいるとき、彼はセラピストが処方してくれる青いピルを飲んでいた。これはおそらく現実への皮肉ではないかな。セラピストはアンダーソン君が目覚めないように青いピルを処方し続けた。現実でも、世界中の精神科医が患者に青いピルを処方している。それはこのマトリックス世界で真実に気づかせないようにするためだ。ケガをすれば肉体が痛みというシグナルを発するように、妄想して現実との区別がつかなくなるのはこの世界に「痛み」を感じているからだ。この狂った世界に違和感を抱くことは正常なことであり、その結果としてアンダーソン君のように精神が錯乱してくるのである。とすれば、この世界に何の違和感も抱くことなく生きている人間のほうがむしろ狂っているのである。

 

ネオはマトリックス世界に入りトリニティに会いに行く。今回選択するのはネオではなく、トリニティだ。彼女はマトリックス世界でこのまま家族とともに暮らしていくのか、それともネオとともに現実の世界へと行くのか。トリニティは家族を選びかけるが、ネオを選択する。そして、アップデートされたマトリックス世界で再び戦いが始まった。アップデートされたマトリックス世界では、エージェントだけでなくボットと呼ばれる普通の人も敵となって自爆テロをふっかけてくる。最終的に、ネオとトリニティはビルの屋上にまで追い詰められた。三部作では、ネオはさながらスーパーマンになって飛び回っていたが、『レザレクションズ』では老いぼれて飛べなくなっている。まわりを全部ボットに囲まれて追い込まれている状態のなかで、仲間に「私たちを連れて飛べないの?」と聞かれたネオは、ポーズだけとって「あぁ、もう飛べない」と諦めていたのはちょっとウケた。

 

ビルの屋上で敵に追いつめられたネオとトリニティはビルから飛ぶ。

そして飛べた。しかし飛んだのはネオではなく、トリニティのほうだった。ネオはそこで気づいたのだった。救世主は自分ではなくトリニティのほうだったのだと。ここらへん時代の流れを感じた。ネオだけなく自分も含めて観客全員が、救世主はネオだと思っていたはずだ。フェミニズム運動やmetoo運動が起こったことで、救世主は男性でなくてはならないという価値観が変わったのだと思う。何より、ウォシャウスキー監督が性転換手術を受けて女性に変わったことも、トリニティが救世主であってもいいというふうになったのではないかな(三部作から『レザレクション』のあいだにウォシャウスキー兄弟が兄弟そろって性転換手術を受け姉妹になっていたことにめっちゃ驚いた。でもそれはアメリカという国のキャパシティの広さを感じさせた)。マーゴット・ロビー主演の『ハーレイクイン』も女性が男性に勝つ映画だし、ハリウッドも現実で起こっていることを映画に反映しているのだ。救世主として覚醒したトリニティは最後アーキテクトのところへ行きしっかり痛めつける。このときネオは後ろのほうでただ見つめているだけだ。トリニティは最後、今度は私たちが世界を作っていくのよと力強く宣言したところで物語は終わる。

 

この映画は二つの意味でトリニティを回収している。

一つは、ネオたちがマシーンシティにあるポッドからトリニティを回収するという意味で。『レザレクションズ』は『マトリックス』と対をなしていて、『マトリックス』ではネオを回収する物語なのに対して、『レザレクションズ』はトリニティを回収する物語だ。

もう一つは、トリニティという名前の意味を回収したという意味で。この映画の登場人物の名前には一つ一つに意味が込められている。ネオはNEOと書くが、これはアナグラムになっていて文字のつづりをいれかえるとONEになる。ONEは「救世主」を意味する。モーフィアスは、ギリシア神話に登場する夢の神モルフェウスからきている。そして、トリニティはキリスト教の「三位一体」を意味している。『レザレクションズ』でトリニティが救世主となったことで、彼女は名前の意味のとおり「トリニティ」となったのだ。ウォシャウスキー監督は見事だよな。トリニティを救世主にしたことで、名前の意味を回収しただけでなく、フェミニストも満足させたのだから。

 

マトリックスという物語が現実と仮想世界の話なだけに、この物語は現実や時代の流れを反映していて面白い。映画のなかで、アンダーソン君が勤める会社の社長が彼に、続編を出さないとワーナーブラザーズに契約を打ち切られるという話をしていたのだが、たぶんあれはウォシャウスキー監督が実際にワーナーブラザーズから続編を出せとかいろいろ言われていたんだと思う。他には、『マトリックス』では『不思議の国のアリス』がモチーフとなっていたのに対し、『レザレクションズ』は続編だから『鏡の国のアリス』がモチーフになっている。だから、三部作では公衆電話を使って現実に戻っていたのに対し、『レザレクションズ』では鏡を使って現実に戻っている。

 

最後に、エンドロールの後ゲーム会社のシーンに戻って、社員らが「今はネコさえ使っておけば観客は喜ぶんだ」と言って『キャトリックス』について話している。世界中の人がyoutubeでネコ動画を観る時代になって、それを反映したのだろう『レザレクションズ』ではしょっちゅう「デジャヴ」という名前のネコが登場する。