現実の又吉と理想の又吉の師弟関係を描いた芥川賞受賞作『火花』

7年ぶり2度目の再読。

 

7年前文藝春秋誌で初めて読んだときも、今回読んだときも思った。これは現実の又吉である主人公の僕と、理想の又吉である神谷師匠の「漫才」の小説であると。これは芸人の話で、お笑いを追求した話には違いないが、これは人々の生き方にも敷衍できる小説だった。

 

僕も神谷師匠も売れない芸人で、ともに東京の底を這うような生活を送っている。僕も神谷師匠もともに売れたいと思っているが、僕と師匠は根底から違う。僕にとって漫才は仕事である。仕事だからお金を稼がなければならない。ウケる必要がある。そのためには時として自分の信念を曲げる必要がある。一方、神谷師匠にとって、漫才することは仕事ではなく、人生である。だから、生活のすべてでボケ倒している。そして、漫才は文字通り人生そのものなので、すべてを懸けている。自分の追求するお笑いが、たとえ劇場に足を運ぶ客、ベンチで隣に座っている母親に抱かれる赤ん坊にウケなくても、自分のお笑いを曲げることをしない。僕にとって神谷師匠が師匠であるゆえんはそこである。

 

僕は少しずつ、少しずつ売れていった。雑誌に注目の新人として紹介されたり、お笑いライブに呼ばれて漫才する機会が増えていった。以前は仕事のために深夜バイトをしていたが、そんなことをしなくてもお笑いだけで食えるようになり、ちょっと高めの家賃のマンションに住めるようになった。しかしそれも一時のことで少しずつ仕事が減っていった。すべてが年を重ねていく。僕の相方の山下が結婚し双子の父親になったときが潮時だった。コンビは解散し、僕は別の仕事に就いた。

 

神谷師匠は僕と違って一度も売れなかった。それなのに僕にはいつもごちそうしてくれたり、飲み屋で知らない客に勝手に奢ったりしたことが原因で1000万の借金を抱えていた。そして、ヤバめの消費者金融からもお金を借りていたので、1年以上行方不明になった。僕と1年越しに再会したとき、神谷師匠は自己破産していた。にもかかわらず、「男がFカップなんて面白いやろ」と言って豊胸手術を受けていた。僕は泣きながら、「それのどこが面白いねん。テレビに出れるわけないやろ」と説教するのだった。

 

 

現実の又吉もお笑い芸人で、おそらくはじめは主人公である僕のような人生を送ってきたのだろう。実際は、一時ではなく一生お笑いだけで生きていくことができるほど稼いでいる。でもそこに至るまでに、自分の追求するお笑いを曲げてでも、多くの人にウケるお笑いが必要だったはずで、信念に反した笑いを得たことも多々あったと思う。だからこそ、まったくウケなくても絶対に信念を曲げない神谷師匠を描いたのだ。

 

人には誰でも「こう生きたい」と思う道があって、しかし多くは現実との折り合いをつけ妥協して生きている。誰もが主人公の僕だ。そして、「こう生きたい」と思う人が神谷師匠だ。今後の師匠は、線香花火のように儚く散っていくだろう。妥協しているわれわれは誰もがそう思う。だがそれでも神谷師匠は今もこうして目の前に存在し、「面白い漫才を思いついたぞ」と巨乳を揺らしている。たとえ破滅の道を突き進んでたとしても、馬鹿正直に自分の信念を生ききる人はとてもかっこいい。そういう人たちって今どのくらいいるんだろうかね?