雑記

サウナの窓枠にオーダーしたポリカボネートがはまらないので、紙やすりでせっせと削っている。ベランダで削りながら前の道路を走る車(男性のほうがよそ見しがち)や、柱のあいだを縫うように飛んでいくカメムシを眺めていた(今年はカメムシがいつもの何十倍もいる)。

削っていると、いつもとはほんの少しだけ見える景色が違ってくる。それはとても楽しいことだ。そして、ただ削るという単調な作業を続けていると、いつの間にか空想が始まっている。

この前テレビの番宣CMで、新垣結衣が栗の皮を剥いていたら朝になっていた、と話していて、まじかよ!と驚いたのだが、今日ポリカを削っていてなんとなく分かった。たぶん、彼女は栗の皮を剥くというプロセスで、大げさにいえば空想して別の世界に行っていたのだ。

もちろん、栗を食べるために栗の皮を剥くわけだが、その目的に向かいながらも、途中道草を食うのが楽しいし、そのために栗の皮を剥くという側面もあるだろう。学校から家に帰る途中に道草を食うあの豊穣な時間。あれと同じである。

とはいえ、別の次元に行けるかというのは、なんというか偶然の産物みたいなもので、いつもそこに行けるかはわからないし、たとえばあれこれ考えないといけないことがあるとそれに煩わされてだいたい行けない。

彼女がそういうことに真夜中に没頭できるというのは、たぶん彼女にあれこれ思い煩うことがないからだろう。夫の星野源はアーティストでありクリエイターだから、そうした時間がとても大事だということは分かっているだろう。彼女は良い人と結婚したなぁとポリカを削りながら思った。いや、これは完全に自分の勝手な想像にすぎないのだが。

ポリカを削りながら自分の家を眺めていると、トタンに間違って打った釘穴が何個もあったり、適当なコーキング処理がされていたりと、プロでもまぁまぁミスしているのだなと思った。今サウナキャビンを作っていて、自分の知識や技術のなさにイライラすることが多いのだが、プロでもミスするのだなと思うと少し気が楽になった。それに、自分はそういった釘穴やコーキングのことに今までまったく気づかなかった。自分が建築に関心を持って、じっくり家を見てみようと思い見たことでやっと気づいたのだ。家族は誰も気づいていないだろう。

世界は誰の目にも同じように見えていると思ってしまうものだが、そうではない。人はみな自分の関心や知識などに基づいて世界を構成しているのだ。そういったなかでも、たとえば信号が赤なら止まるといったように、社会ではすべての人間が共有しておかなければならない事柄が多くあって、ある部分に関してはすべての人間の世界を擦り合わせておかなければならない。それはとても大変なことに思える。そしてある程度はちゃんとそれが実現できているのだから(みんなが赤信号は止まると知っている、それを守るかどうかはおいといて)、すごいことだと思う。