同僚ともののけ姫

会社を登記している家は、自分と二人でいっしょに会社を立ち上げた同僚がタダで手に入れた古民家で、手に入れたときにはすでに家の隅の屋根が崩れ落ちていた。それは2年前のことで、そのときはまだどうにか立て直せそうな状況だった。同僚は屋根全体をブルーシートで覆うことにした。ブルーシートをかけるために屋根に3つの穴を空けた。ブルーシートで無事屋根を覆うことができたが、まもなく強風でビリビリに破けあえなく散っていった。残された3つの穴と、もともと崩れていた屋根のところから容赦なく雨が内部に注がれた。そして、ここ数年のドカ雪のせいで、家は一気に朽ちていった。ずっとシーズンに一回降るか降らないかだった雪がここ数年は災害レベルで降っているし、なぜか梅雨も例年より長い。そのせいで家はもう解体する他ない状態になった。

そういうことで、自分がせっせと家にたまったゴミを片付けたり、家横の鉄パイプで組まれた倉庫を解体したりしている。業者に解体してもらう予算などないので、危険だが自分らで解体するしかない。重機が入れないところに建っているので手壊しで少しずつ解体しないといけない。危ないので複数人で作業したい。

それなのに、同僚は県外で何かしていて月に一回戻ってくるかどうかというレベル。自分の取得した家なのに何もしない。冗談なのか本気なのか分からないが、崩れたら崩れたで一興と言っていたから家がこんな状態になっても何も思っていないのかもしれない。それを何年か前に聞いたときは、やっぱり変わった人だなと面白く思ったが、いざ家がこういう状態になっても何もしようとしないのは無責任だし、どうしようもない人だなと思う。家には郵便配達の人や同じ部落の人も来るわけで、そのとき家が崩れたらと思うと、まだ解体できる今のうちに解体しておかないといけない。

そういうことを考えていると同僚の無神経さや無責任さにイライラしてきた。そして、ふいになぜかもののけ姫が思い浮かんだ。は?どうしてもののけ姫が脳裏をよぎったのだろうと思った。

 

もののけ姫』はおおざっぱにいえば、自然と人間の対立の話で、アシタカはそのあいだを揺れ動いている。物語の冒頭、アシタカはタタリ神になった巨大イノシシを退治したときに呪いを腕にうける。イノシシの中には鉄砲玉が打ち込まれており、それを撃ったのはエボシだった。それならアシタカは、自分が呪いを浴びる原因をつくったエボシを殺せばいいのに、そうしなかった。エボシを長とするタタラバを見て回ったとき、エボシは社会で虐げられた人々である身売りされた女性やハンセン病患者を救い生きる希望を与えていたことを知ったからだ。エボシは政治家としても経営者としても優秀だといえる。一方で、そのタタラバの人間たちは自然を徹底的に破壊していたわけで、エボシはサンや山犬に命を狙われていた。

 

もののけ姫のストーリーを思い起こしていたとき、結局は枠組みの問題なのだと思った。社会という枠組みのなかではエボシは善なる存在であるが、自然という枠組みのなかでは悪である。

枠組み、フレームというのは便利な概念で、同僚の件も枠組みを使うとわかりやすくなるような気がする。同僚は、どうでもいいとか、家が崩れたら崩れたで一興とか言うのだが、たぶん普通の常識人より大きな枠組みで物を考えているのだと思う。ポジティブにいえば、スケールが大きいといえる。しかし、崩れたとき人が近くにいたら大変なことになるとか、ゴミの処理代とか負担させたり、無給で片付けや解体作業を一人でさせていて迷惑をかけているとか、そういう現実的なレベルで物事を考えられない。同僚は、崩れてもべつにかまわないからわざわざ何かする必要はないと思っているのだろう。つまり、自分と同僚は、異なる枠組みのなかでこの家問題をとらえているのだ。

べつの表現をすれば、彼の足は地についていない。だからこそ、高い視点から物事を広いスケールでとらえることができる。同時に、地に足がついていないから、いろんな人、主に筆者にだが、迷惑をかけ信用されなくなる。

 

家や同僚のことを考えているときにもののけ姫がふいに思い浮かんだのはこういう関連があるからなのかなーと思って記している。べつべつの枠組み、フレームで物事を考える人とは、まず枠組みの共有から始めないと物事が前に進まないし、お互いに不信感を持つことになる。