バイオリンを弾く手をとめて考えたこと

今日バイオリンでベートーヴェンの「歓喜の歌」のサビ部分を弾いているとき、「なんでこんなにシンプルなのに、それでいて深いのだろう」と感じた。歓喜の歌のサビ部分は初心者でも弾けるくらいかなり簡単である。それでいてこのシンプルは世界中の人々の心に深く刻まれている。シンプルイズベストを体現した音楽なのだ。

この深みというのは一体どこから生れるのだろう?この作品は浅いとか深いとか、薄ぺらいとか重厚だとかというあの感覚は、どのようにして感じられるのだろうか。人と話しているときや作品を味わっているとき、この人は、この作品は「分かっている」と思わせるあの感じは一体何なのだろうな。

ドストエフスキーの『悪霊』を読んでいて、まぁあまり面白くはないのだが読み進めている。『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』を初めて読んだときも、まぁあまり面白くなかったし読み進めるのに苦労した。でも2回目、3回目と読んでいくと「あぁこれはすごい小説だ、なんて重厚な作品なんだ」と思った。たぶん『悪霊』もそうなのだろう、作品がつまらないのではなく自分がそれを味わい尽くせるだけの舌を持っていないのだ。一方、村上春樹の小説はポップでライトで読みやすいが、それでいて深みを感じさせる。物事の本質をきっちりとらえているような、そんな感じがする。村上春樹ドストエフスキーの小説は、作風はまったく違うがどちらも深みのある作品だと感じる。

昨日、録画していた『ザ・ファブル』を観た。物語の終盤までは面白かった、最後の方の佐藤と宇津帆の対峙シーンは少し興ざめしたが、まぁ最後まで楽しめた。でも映画作品そのものの物語の薄っぺらさみたいなものを感じた。何だろうな、本質的でないあの感じ。語彙力がないからうまく表現できない。原作を読んでいないから分からないが、あの薄っぺらさは原作よりはむしろ邦画のせいだと思う。もちろんすばらしい邦画はたくさんあるが、全体的に薄っぺらくて興ざめしてしまう邦画が多い。特に有名な俳優をたくさん使って大々的に宣伝している邦画はだいたい興ざめする。『ザ・ファブル』は面白かった、でもなんだか物事の表層しかとらえていないような感じがした。村上やドストエフスキーの小説に感じるあの物事の本質をとらえた感じ、あれを感じられなかった。なんであんなに薄っぺらく感じるのだろう。

『明日、私は誰かのカノジョ』というマンガに出てくる登場人物も物事の表層でしか生きていないと感じる。物語はとても面白い、この作品自体には薄っぺらさを感じない。このなかに出てくる登場人物たちが薄っぺらいのだ。女の子だけでなくて、そのまわりにいる男たちも含めて、東京という虚構のまちの、欺瞞と薄っぺらさのなかで喘いでいるあの感じが愚かに感じる。むかし、東京を旅してて銀座をチャリンコで走っているとき横断歩道で信号待ちしてたら、隣に全身赤いスーツをまとったボウズのおっさんと若い女の子が隣に立った。ボウズが「ふぁ~、眠いなぁ」と空あくびしたら、隣の女がそれをまねして「ふぁ~、眠いなぁ」と空あくびしていた。その光景を横目で見て全身に鳥肌がたったのを今でもはっきり覚えている。本当に気持ち悪かった。なんだろうな、あの人間としての薄っぺらさ、気持ち悪いカップルだった。東京の中心にはああいう欺瞞があふれているんだろうな、今もむかしも。

こういうのを、今日バイオリンの『歓喜の歌』のサビ部分を弾きながらいっきょに思い出した。で、考えた。この感じは一体なんだろうなと。物事の表層とか本質とか、浅さとか深みとか、この極めてあいまいで茫洋とした感覚は一体なんだ、でも、たしかそれを人や作品に対して感じる。この感覚は人それぞれだろうが、村上春樹ドストエフスキーには世界で多くの人間が「あぁこれは深い」と感じているから、人々の心はある程度は共通した感覚を持っているのだろう。実際にメジャーで深さを測れるわけではないのに、これは浅いとか深いとか感じるその心の働きは、人間に特有のものなのだろうか。そんなことをバイオリンを弾く手を止めてしばし考えたわけです。