バイオリンのD線を張り替えた

この前いつものようにバイオリンを弾こうかと思ってケースを開けたらこんなことになっていた。

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Dストリングが切れる寸前になっていたのである。

自分はバイオリン初心者なので、弦がこんなふうになるのが普通のことなのか分からない。弾いているときに切れることはあっても、ケースに入れているときにこんなふうになるものなのだろうか?

 

それに、板の上に弾いた時に落ちる松脂とおそらく弦の破片?みたいな鉄粉が落ちていた。

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明らかに誰かが弾いた形跡がある。自分はいつも弾き終わったら必ずきれいに拭きとるのでこんな汚い状態にはならない。しかし家の者にきいても誰も触ってないという。嘘をついているようには思えない。分からん、謎である。なんでこんな状態になっていたのか時間がたっても分からない…

 

なんにせよ、弦を張り替えないといけない。

弦の張り替えは初めてなので、緊張した。バイオリンを弾いている身とはいえ、自分のなかでバイオリンは高貴なものなので触れることが畏れおおいのだ。何年も前にメルカリで手に入れた弦を張ろうとしたら、切れた…4本セットで1500円だったと思う。メルカリの入会特典でもらったポイントで購入したので実質タダだが、いきなり何百円も無駄にしてしまって自分の不器用さに腹がたった。

仕方がないので、店に行って弦を購入した。そういえば楽器店も初めて行った。緊張した。今のバイオリンはジモティで6000円で譲ってもらったものなのだ。バイオリンを始めるにあたって続けられるかどうか分からないのに、いきなり10万も20万も出すことはできない。だから中古の安いやつをジモティで譲ってもらった。なんだかんだで1年以上は弾いている。

 

購入したのはスズキの弦。1100円くらいだった。楽器店にはいろんなメーカーの弦があったが違いなんて当然分からない。金がないので一番安そうな弦にした。弦の相場を知らないから安いか高いのかもよく分からん。

 

今度はうまく張れた。

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替えたのはDストリングだけ。

以前はどの弦もチューニングが楽だったのに、Dストリングだけ張り替えるとDストリングだけでなく他もチューニングに苦労するようになった。なぜかすぐに音程がおかしくなるのだ。

そんなこんなでどうにかチューニングして弾いてみたのだが、新しい弦は以前のものとは音が全く違って驚いた。たしか2019年に譲ってもらったから、少なくとも3年くらい弦を張り替えていなかった。ちゃんと弾き始めたのは1年と少し前だからそんなに使ってなかったとはいえ、弦がだいぶ劣化していたのかもしれない。他の弦ももうそろそろ張り替えたほうがいいのだろう。

 

しかし弦を張り替えるだけでこんなにも音が違うのは驚いた。

自分の奏でる音が安っぽく聞えるのは、自分の腕やバイオリンの質が原因なわけだが、弦も大きな要因だったようだ。なんにせよまた弾けるようになってよかった。

 

井筒俊彦と量子力学・虚数・宇宙

井筒俊彦の本を読んでいる。この人は哲学から仏教から現代思想イスラームインド哲学まで縦横無尽に駆け巡ってひとまとめにする力強さがあって読んでて面白い。それぞれを細かく見ていけば違いはあるのだろうけど、大局的な視点から見れば結局のところどの思想や文化でも言ってることは同じようなことになるようだ。

井筒の言ってることをおおざっぱにまとめてしまうとこうなる。わたしたちは言葉を使ってこの世界を認識している。他者とコミュニケーションをとれるのも言葉を使っているからだ。「そこのコップをとってほしい」と人に伝えるとコップをとってくれた。それはお互いがコップと呼ばれるものを認識しているからだ。言葉は世界を分節している。言葉がなければ世界はのっぺらぼうになる。そこに「コップ」という言葉で切り込みを入れることで、この世界にコップは存在しわたしたちはコップを認識できる。わたしたちはさまざまな言葉で世界にあるものを分節し世界を理解している。しかし逆に言えば、言葉があることによってわれわれは世界を正確に認識できていないともいえる。わたしたちは、虹が何色かと問われるとと7色だとこたえる。しかし別の文化圏では4色や5色だったりする。ロシアは4色で、ドイツは5色らしい。なぜ見え方に違いがあるのかというと、日本のほうがドイツよりも色の分け方が細かいからだ。目や脳の構造に違いがあるわけではない。日本人とドイツ人が並んで同じ虹を見ていても、日本人は7色と答え、ドイツ人は5色と答える。では、どちらが正確に虹を認識しているのか。それは分からない。われわれは世界を認識するために言葉を使うわけだが、同時に言葉のせいで世界を正確に認識できなくなっているわけである。それぞれの国の言葉は違い、それによって分節のしかたが違い、世界の認識のしかたが異なってくるわけである。世界を正しく認識しようと思ったら、言葉の分節を無化する必要がある。言葉によって分節される前の状態に移行すること。その状態に移行するためには修行が必要なわけだが、言葉によって分節されない無分節の世界こそが本来的な世界なのだ。その状態に行くことを悟りと呼んだり、その境地を無我の境地と呼ぶ。無分節の世界はすべてが混沌としていてコップとリンゴの区別はない。すべては融けあっている。無の世界、そしてその無はコップとなり、リンゴとなる可能性をもった状態である。言葉とは、コトの葉である。わたしたちが物心ついたときにはコトの葉をとおして世界を認識しているが、葉っぱというのはいきなり葉っぱとしてこの世界に生まれたのではない。葉っぱが成る前には枝があり、幹があり、その下には根があるのだ。こうしてもとをたどっていくと種にいきつく。この種、すなわちすべてのコトの葉を生み出す可能性を持った種をビージャ、種子(しゅうじ)といい、その場所をアラヤ識と呼ぶ。アラヤ識はわたしたちの心の深層にある。表層意識におけるわたしたちはコトの葉によって世界を分節し、そして他者とコミュニケーションをとり日常生活を送っている。しかしすでに述べたように、これは世界を正しく認識した状態ではない。本来の世界を認識するには修行が必要で、そのプロセスを正しく踏んだ者が、深層意識にまで降りていくことができ無分節の世界に到達できる。しかしわたしたちはその世界で生きているわけではなく、悟りを開こうが開かまいが日常の表層意識で他者とコミュニケーションをとりながら生きていかねばならない。それでも深層意識まで降りていき無分節の世界に到達できた者は、悟りを開く前に見えていた世界とは異なるものが見えるという。

 

井筒の本を読んでいると、彼の使う言葉は理科系の説明とも相性がいいように感じる。

観想体験に関係のない日常的生を生きている人が、「事物」として知覚しているものは、観想体験を経た人の目から見ると、一つ一つが存在的「出来事」、言い換えればプロセスなのです。個体として存続する無数の物から出来ている世界として、普通、認識されているフィジカルな世界は、この見地からすれば、ただ現象的幻影にすぎません。『意味の深みへ』P50

 

これはもう量子力学の説明と同じなんだよな。

 

matsudama.hatenablog.com

 

『世界は「関係」でできている』という本では、カルロ・ロヴェッリという物理学者が、ナーガールジュナの「空」を使って量子力学を説明していたのだが、そこで言っていることは上の引用と同じなのだ。

コップとかリンゴには手触りがあって、わたしたちはそれを「モノ」として認識している。このようなモノが無数にある世界がフィジカルな世界で、これはわたしたちの日常的な世界である。しかし観想体験を経た人、つまり深層意識に到達した人にはこれは幻である。モノはモノとして存在しているのではなく、関係のなかで「出来事」として存在するのである。コップやリンゴはモノではなく、出来事なのである。

物理学には古典物理学量子力学があって、日常的な生においては古典物理学的世界観が成り立つが、深層においては量子力学的世界観が成り立つのだろう。二重スリット実験やシュレディンガーの猫など、量子力学の領域ではわたしたちの常識からすればありえないような世界が拡がっている。しかし観想体験を経た人にとってはむしろこのような世界こそが普通なのだ。

常識的に考えればその世界は矛盾した妄想の世界だ。しかしその想像にすぎない世界は、観想体験を経た人にとっては、そちらの世界のほうがむしろ実在した世界なのである。

経験的事物を主にして、その立場からものを見る常識的人間にとっては、質量性を欠く「比喩」は物質的事物の「似姿」であり、影のように儚く頼りないものである。が、立場を変えて見れば、この影のような存在者が、実は経験的世界に実在する事物よりも、もっと遥かに存在性の濃いものとして現われてくる。スフラワルディー

ーそして、より一般的に、シャマニズム、グノーシス密教などの精神伝統を代表する人々―にとっては、我々のいわゆる現実世界の事物こそ、文字通り影のごとき存在者、影のまた影にすぎない。存在性の真の重みは「比喩」の方にこそあるのだ。もしそうでないとしたら、「比喩」だけで構成されている、例えば、密教のマンダラ空間の、あの圧倒的な実在感をどう説明できるだろう。『意識と本質』P203-204

 

そしてさらに興味深いのが、量子力学の礎を築いたシュレディンガー方程式虚数「i」が登場することだ。虚数というのは二乗すると「-1」になる矛盾した数字なのだが、古典物理学の方程式には登場しない「i」が量子力学になると初めて登場するのである。

常識ではおかしいはずの虚数量子力学の世界には存在する。しかしすでに見てきたように、深層意識ではわたしたちの常識が通用しない、そもそも常識そのもののほうが幻影なわけであるから、「i」が存在するほうがむしろ普通なのである。その「i」は90度回転を意味する。実数軸と虚数軸で構成される複素数平面を見れば分かるように、実数軸からの90度回転を虚数「i」は意味する。つまり、観想体験で観ることのできる世界は、われわれの日常的生が営まれる3次元世界から90度回転した方向にある世界である。その世界は4次元空間のことである。この4次元空間を観る方法が数学者根上生也の本に載っているから読んでみて欲しい。

 

 

a+biのかたちで表されるのが複素数。a+bi+cj+dk(i.j.kは虚数)のかたちで表される数を四元数という。これはハミルトンという数学者が発見したのだが、奇妙なことに四元数以外の数では矛盾して計算できなくなるらしいのだ。三元数では矛盾が起きて計算できないのが、四元数だと計算できるようになる。この四元数をみたときに思ったのが、複素数四元数は鏡の関係にあるなということ。わたしたちの日常的生を鏡映しにした世界もまた3次元にある。虚数i.j.kで構成された虚構の世界。そしてあちら側の世界から90度回転した世界がわたしたちの実数で構成される世界。こちら側の世界から見ればあちらの世界は虚構の世界であるが、あちらの世界からみればむしろこちらの世界が虚構である。量子力学や深層意識はそれを示している。そして、こちらの世界とあちら側の世界のあいだに4次元空間が拡がっている。これは、リサ・ランドールが提唱した余剰次元の世界と一致している。ブレーンと呼ばれる3次元空間があって、さまざまな粒子や力はそこに閉じ込められているが、重力だけは余剰次元を行き来している。この余剰次元、ブレーンの外側にある空間をバルクという。ランドールのいう宇宙の構造は、ブレーンとブレーンがあってそのあいだにバルクがあるというもの。自分は四元数をよく理解していないが、四元数余剰次元の関係は深いと思う。

 

井筒は量子力学や数学については言及していないが、ざっとみただけでも彼の学術領域と量子力学や数学は密接に関係している。結局のところ、表現が違うだけで同じ世界を観ているからだ。おそらくわたしたちの日常的世界とわたしたちが虚構と呼んでいるあちらの世界は、量子力学でいうところの対称性を持っている。こちらの世界が上向きのスピンをすれば、あちらの世界は下向きのスピンをする。そして、われわれ人間はちょうど二つの世界のあいだ、なのだ。あいだそのもの。

 

しかし疑問なのは、だとしたらなぜ人間の世界認識はこうも誤ったものになっているのかということだ。一握りの限られた特別な人間を除いて、ほとんどすべての人間は誤った世界認識をしていることになる。人間の認識構造はなぜ誤ったかたちになっているのか。それについて考えていこうと思う。

 

 

土壁つくる練習をした

そろそろ小屋を作りたいなぁて思って、どうやって小屋建てようかなと思ってたところ、家の目の前にある倉庫の壁が土壁だったので「これで行こう!」と思った。うちの近所は昔ながらの街並みが拡がる城下町で、土壁でできた家がけっこうある。土壁にすれば金が浮くし、土なんてそこらへんにおちてるからこれでいこうと思った次第。youtubeで動画検索したら、土壁は小舞と呼ばれる格子状の土台を組んでそれを表と裏から土を塗りつけて壁にするという流れだと知った。小舞は竹で組むようだ。まずは竹をナタで割って、格子状に組んだ。

 

これをあや掛けのいぼ縫いで固定した。

 

 

参考にしたのはこの動画。


www.youtube.com

 

そのあと畑にあった土を水でこねて竹小舞に塗りつけた。

 

 

もう少し粘土質の土にしたかったが、なかなかごつごつした感じの土になって竹小舞にちゃんとくっつかなかった。これは失敗かなぁ。

 

 

乾いた後。

小舞の間が指3本分でたぶん広すぎた。だからくっつなかったところがあった。

ただくっついたところはけっこうしっかりくっついていてちょっと驚いた。こんな適当でもしっかり固まるんだなぁ。

 

いい練習になった。

藤川球児の大局的な解説がすごかった

昨日プロ野球の開幕戦があって自分は阪神のファンだから阪神ヤクルト戦をBSで観てたんだが、その解説のひとりが阪神OBの藤川球児だった。自分は高校野球プロ野球もけっこう観るが、こんなに興味深い解説を聴くのは初めてだった。藤川球児は選手としてもすごかったが、解説者としてもすげぇなと思った。なにがすごいって解説がとにかく大局的なんよ。大局って全体的なという意味なんだが、その試合全体だけでなく、シーズン全体、ひいては選手の野球人生全体から解説してて、野球の奥深さを藤川球児に見せてもらった感じ。他の解説者の解説はあんまり印象に残ってないのだが、他の解説者の解説はたしか、ピッチャー目線ならこのバッターはこういう特徴があるから次はこういう球を投げるといいとか、このカウントなら次は一球外に外してとか、そんな感じの解説が多いような気がする。つまり、多くの解説者の解説ってミクロな解説で、バッテリーと対戦するバッター、あるいは次のバッターとの兼ね合いのなかで語られる。一番広い次元でも、その試合全体から現在の回が語られるにすぎない。でも藤川球児の昨日の解説はもっとマクロに語られていてとても興味深かった。昨日の阪神の先発は藤浪晋太郎阪神は早い回で大量得点し、藤浪も5回までは1点に抑えていてだいぶ余裕がある状態だった。それで今季新たに武器にしようとするカーブを試合のなかで練習したりしていた。藤川は、そういうチャレンジをするのは、今後さらに飛躍していくために必要なことだと言っていた。そして、この開幕戦で嫌な印象をバッターに植え付けておくことで2か月後の対戦が楽になると言っていた。なるほどなぁ、プロ野球高校野球と違って同じ相手とこの先何度も対戦するから、この試合での印象が何か月後かの勝負に活きてくるわけだ。もっと興味深いのが、視聴者の「藤浪は今年10勝できるでしょうか」という質問に、藤川は「10勝できるかなんてどうでもいいじゃないですか」と答えていたことだ。10勝とか二けた勝利というのはメディアが記事にするために勝手にこしらえた一つの数字であって、藤浪や他の選手が目指すのはファンや自分を納得させる一球をどれだけ投げるかということなんですよ。大谷くんのように限界を設けずひたすら向上していこうと、そういうふうにしていくことが選手としては大事ということを話していた。結局10勝できるかどうかという質問に答えていなかった。実況や他の解説者は反応に困っていた。藤川のこういう解説に、視聴者の合う合わないはあるだろうけど、個人的には好きだなぁ。あぁこういう解説もあるんだなと思わされた。藤浪が7回3失点で降板しその時点で5点リードだったからまぁ勝つだろうと思ってテレビを消した。そしたら逆転負けしていた。ふざけんなと思ったが、まぁ阪神らしいなと思った。

最近の出来事・備忘録 悪夢と進撃の巨人

この前仕事で仲間が以前住んでいた家からカーペットやストーブなどを運びだした。以前仲間が家に住んでいたころ何回か泊まったのだが、夜寝るときになんか変な感じがした。自分は特に霊感があったり見えたりするわけではない。ただなんというかあまりここにはいたくないなと思わせる家だった。昼間はそういう感じはしなかった。で、仕事の関係で久しぶりにその家に行って、夜悪夢を見た。自分の家の近所には割と大きな神社があって、夜の神社を歩いていた。仲間といっしょに肝試しで来たような気がするが、自分は一人でいて森のなかをさまよっていた。出口に向かおうと歩いていると、後ろから見えない力、悪い力が自分を引き戻そうとしていた。引っ張られるというより、引きずり込まれそうな感じ。たぶんブラックホールに飲み込まれるときはあんな感じでひきずりこまれるんだろう。やばいやばいやばいと思いながら、なんとか木にしがみつきながら出口に向かっていた。その後はもう明るくなっていて、なぜか知らないが自動車整備工場にいて、中学のときの先輩が「もう大丈夫だから」と言って腕をさすってくれていた。その先輩には霊感があるようだった。現実の先輩に霊感があるのかは知らない。神社から離れた後もなおその腕から背中からびりびりしびれているような感じで、両腕は後ろに引きずりこまれそうになっていた。そこで目が覚めて、まだ深夜だったのですごく怖かった。頭からつま先まで汗でびっしょりで、すでに汗がひえて寒かった。

 

スマートニュースに、「『進撃の巨人』という神話」というテーマで社会学者たちが考察する記事があった。記事は読まなかったのだけど、『進撃の巨人』って学術的に価値のあるマンガなのかと思って、ネットカフェに行って読んでみたらドはまりしてしまって全34巻一気読みした。すごかったわぁ。普通にエンターテインメントとして読んでも面白いし、組織論として読んでも面白い。この作品は、なぜ戦争がなくならないのかというテーマに鮮やかに答えを提示している。この物語、最初は人類が巨人という勝ち目のない敵に闘いを挑むという構図なのだが、中盤から本当の敵が巨人でなくなってくる。人類の敵は人類だったのだ。そして、それぞれが自分たちを守るために、巨大な犠牲を払って戦争しているんだよな。まさに今、ロシアとウクライナが戦争しているわけだが、ロシアとウクライナは同胞だった者が殺し合っている。『進撃の巨人』もそうしたシーンが描かれている。『進撃の巨人』はラスト、主人公のエレンが自分たちを守るために、とんでもないことを行う。でもそのとんでもないことを行わないと世界中の人間が力を結集させて自分たちを殺しにくるのだからエレンのやったことは仕方のないことだといえる。結局、この物語は悲しい結末に行きつく。そしてそれは仕方のないことだった。どうかロシアとウクライナの戦争は『進撃の巨人』のようにならないでほしい。

 

作者の諌山さんは本当に天才だと思う。どのようにしてこの物語を作りだしたのか調べてみると、大分県日田市の大きな壁に囲まれたような地形のまちで生まれ育ったことや、幼少期に経験した劣等感やプレイした恋愛ゲーム、鑑賞してきたマンガや映画など、さまざまな要素が複合的に絡み合って『進撃の巨人』は生まれたようだ。『進撃の巨人』を読んでいると、そこには重いテーマがたくさん込められているのだが、そのような深さはどうやったら物語に込められるのだろう?そこはもう才能としか言いようがないのだろうが、このような世界を作りだせる諌山創という人間が本当に羨ましく思う。そして人間の想像力のすさまじさを想う。図書館に行けば大量の本があり、ネットカフェに行けば大量のマンガがあり、ツタヤやゲオに行けば大量の映画がある。これは全部人間の想像力が生み出したもので、その創造性に圧倒される。そして物語の一つ一つに物語そのものの強さがある。この強さはどうやったら生まれるのか?作者はどうやって物語に強さを与えるのか。才能はどのようにして生まれるのか。不思議である。自分は小説もマンガもかいたことがないし、『進撃の巨人』のような架空の世界を作りだしたこともないが、死ぬまで一つ『進撃の巨人』のような世界を作ってそこに物語を吹き込むことができたらいいなと思う。

誰だって望みさえすればエリック・ホッファーになれる

『エリックホッファー自伝』『これからのエリックホッファーのために』を読み終わった。

 

 

ポアンカレ予想を解決したペレルマンや、哲学者のエリックホッファーの生きざまには本当に憧れる。彼らにとっては思索こそがすべてで、地位や名誉、金は必要ではないのだ。学問をしよう、真理を追究しようとなったら、普通は大学に身を置く。工学や物理など実験設備が必要な学問はたしかに大学あるいは企業の研究部門に所属していないと学問をし続けるのは厳しいだろう。でも、文科系や数学などは必ずしも大学に所属していないほうがいいかもしれないとも思う。ペレルマンポアンカレ予想に取り組む際、研究機関ではなく、友人の所有する庭付き小屋のなかでひたすら思索に励んだ。エリック・ホッファー季節労働者として放浪しながら社会を観察し続けた。彼らが望めば研究職に就くことは簡単だった。しかし彼らはそれが必ずしも思索を深めるのに最善の道ではないことを知っていた。地位は時として思索の足かせになる。

 

ホッファーの自伝は、彼が季節労働者としてアメリカ各地を放浪しながらどのように社会を観察していたのかが綴られている。大学生のときに一度読んでいたのに、それを途中まで忘れていた。前回読んだときはあまり心に残らなかったのだろう、でも数年ぶりに読み返すとホッファーという人間の生きざま、ものの考え方に強く共感した。彼は季節労働者という社会の最底辺にいることから、自分を社会負適合者、弱者だと自覚している。しかし同時に、弱者は本当は弱者ではなく、能力があり時として強者に勝ちうるという矜持も持っている。ホッファーはあらゆる領域の学問を独学で習得していく。小説も読む。彼は読書と思索をとおして自らの精神が成熟していくことを実感する。以前読んでよく分からなかった本が、経験を重ねていくうちに深く深く理解できていたからだ。

 

ホッファーは観察眼に長けていて、どのようにすれば自分の求める仕事にありつけるか、どのような態度をとれば雇い主や客に気にいられるか分かっていた。行く先、行く先でうまくコミュニケーションをとり、彼が望みさえすれば、安定した職につけたし家族をつくることさえできた。しかしホッファーは放浪することを優先する。それは彼にとって、季節労働者として放浪することが自らの思索にとって最善の方法だということが分かっていたからだと思う。と同時に、もしかしたら彼は人の懐に入ることはとても得意だが、そこでじっとしていることができないたちだったのかもしれない。この感覚は自分にもあるから、ホッファーももしかしたらそうなのかもしれないと思った。いずれにせよ、放浪し各地で働き労働者を見つめることが彼にとってはもっとも良いことだったのだ。そして、哲学や社会学にとっては、そういったスタンスこそが学術的にもっとも価値あるもののように思える。大学の研究室に閉じこもっているより、社会や労働者のなかに身を置いているほうがはるかに有益にちがいないのだから。

 

塞翁が馬

都会にいたころはけっこう歩いてて一日1万歩歩くなんてのは普通だった。二拠点生活していたから40㎞自転車に乗って拠点を行き来するという生活もしていた。しかし田舎に帰って車に乗るようになってほとんど運動しなくなった。食べる量も減って一回の食事で茶碗4杯食っていたのが、1杯で十分になった。これはヤバいなと思って昨日自転車で20㎞先にある県立図書館に行った。そしたらまさかの休館日だった。借りたい本があったが仕方ない。そのまま自転車でまた20㎞こいで帰ってきた。井筒俊彦の『意識と本質』を読みたかったが、借りられなかったので途中本屋に寄ったがなかったのでかわりに『意味の深みへ』を買った。その後最寄りの図書館に寄ったが、そこには井筒の本は置いてなかった。手持ち無沙汰になって雑誌コーナーにある『ニュートン』を読んだ。

4月号の特集は虚数だが、今はやりのNFTを知りたかったのでそれに惹かれて読んだ。そのついでに虚数の特集も読んだのだが、これが良かった。虚数ってこんなに奥深いものだったのか。虚数はイマジナリーナンバーと呼ばれ、漢字の意味からもイマジナリーという言葉からもあるように、いわば存在しない架空の数字である。二乗するとマイナスになる矛盾した数字「i」。しかし虚数がなければ飛行機は飛ばないし、体重計も存在しない。量子力学も発展しなかった。現代の技術の至る所に量子力学が用いられているので虚数がなければ現代の技術は生まれていなかったわけだ。虚数という想像上の数字が現実を支えているという不思議。特集に虚数の研究者と東大生タレントの対談が載っていたのだが、それが一番の収穫だった。虚数の研究者は言う。自然現象というのは高次元で起こっていて、3次元空間にいるわたしたちが見ているのはその影にすぎないのです。おおお!!!この件を読んでいるときは興奮した。自分の考えていることとあまりに一致していたから。

 

matsudama.hatenablog.com

 

上の記事でも書いたが、3次元にいるわたしたちは4次元空間である心の射影であって、この世界で知覚しているさまざまなものはその影にすぎない。この考えには哲学を通じて至ったわけだが、まさか虚数という道を通ってもたどり着けるとは…

実数の軸と虚数の軸を組み合わせたのが複素数平面で、虚数というのはつまり90度回転を意味する。虚数の研究者がいうように、自然現象が高次元の空間で起こっていることとするのなら、それはこの3次元空間から90度回転させた第四の次元で起こっているのだろう。そこはたしかにわれわれの感覚からすれば想像上の世界であり、矛盾したことが起こっている世界なのだ。

ということで早速、虚数に関する本を何冊か借りて帰った。なにもかもが一つになりつつあるのを実感する。形而上学、物理学、数学、生物学…結局どれも表現が違うだけで同じことを言っている。登山ルートが違うだけで、その頂上から見える景色はすべて同じなのだ。

県立図書館が閉まっていなかったら『ニュートン』を読んでいなかったし虚数の神秘に出会えなかっただろう。休館日を確認しなかった自分に腹がたったが、それによって思いがけない出会いに恵まれた。