シミュレーション仮説とトポロジー


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昨日、この世界は仮想現実であるという内容の動画を観ていた。

そしたら、下の動画で紹介されているスピリチュアル思想が自分の今考えていることとよく似ていてショックを受けた。高次元に存在している魂は無限で、この世界に存在しているとき魂は肉体という有限の箱のなかに入っている。そして死というのは幻想で、それはこの3次元世界における死でしかなく、死後魂は別の次元に行くだけだというもの。これが動画で説明していたスピリチュアル。

 

自分はスピリチュアルを否定する気はないのだが、どうも身体が受け付けない。のどに刺さった魚の小骨のごとく、うまく咀嚼できず消化できないのだ。それなのに、今考えていることがスピリチュアルとほとんど同じなのでびっくりしたし、ショックだった。

スピリチュアルは学問ではないし、したがって科学ではない。科学が絶対だとはいわないが、スピリチュアルっていうのは学問とちがって肯定も否定もできないから「あぁそうなの」と反応することしかできない。批判することができないものは科学ではない。つまり陰謀論と同じなので、このような話をしてくる人間には距離をとってしまう。

とはいえ、科学の範疇に属しているユングの心理学も自分にはどうもスピリチュアルと同じものを感じる。シンクロニシティなんか特にスピリチュアルな匂いを感じる。だから科学とスピリチュアルって境界線はだいぶ曖昧なんじゃないかと思っている。

自分がやっているのは形而上学だと思っていたが、なんだかこれだけスピリチュアルと内容が被っていると心もとなくなってきた。

 

動画にある仮想現実だが、この世界はテレビゲームのシミュレーションみたいなものだという。量子力学には観測の問題というのがある。有名なのがシュレディンガーの猫と呼ばれる思考実験で、箱の中には生きた猫が入っていて、このなかに半分の確率で毒ガスを放出する装置が仕掛けられている。箱の中の猫は、半分の確率で生きていて、半分の確率で死んでいる。常識的に考えると、箱を開けようが開けまいが猫はどちらかの状態にある。しかし量子力学的には猫の生死は人間が観測した瞬間に決定されるのだ。まるで観測する人間が神であるかのようである。人間の観測が猫の生死を決定しているのだから。

この世界が仮想現実であると考える証拠もこの観測の問題に拠っている。テレビゲームではプレイヤーが見える範囲の景色しか画面に現れない。なぜかといえば、見えない範囲の景色も表示していたら容量が重くなってしまうからだ。だからプレイヤーが歩を進めて門を曲がったときに見える光景は、門を曲がるまでは存在していない。これを現実にも当てはめる。たとえば自分が今東京大学の赤門前にいるとき、大阪の通天閣やパリのエッフェル塔は当然見えていないわけで、それはつまり存在していない。常識的に考えると、自分が東大にいるときでも通天閣エッフェル塔は存在していると思っているが、量子力学やシミュレーション仮説はそれを否定する。自分が生きているこの世界もシミュレーションなのだとしたら、自分の見えている範囲以外のものは存在していないのだ。これは哲学者のバートランド・ラッセルが提唱した5分前仮説とも同じもので、この仮説は5分前の自分は存在していないと主張する。いやいや過去の自分の記憶があるやないかと思うかもしれないが、それは捏造なのである。詳しくはWikipediaで。

世界五分前仮説 - Wikipedia 

 

今、数学ガールポアンカレ予想を再読していて、ポアンカレ予想トポロジーの問題なのだが、仮想現実の問題とトポロジーの問題ってすごく共通するものがあるような気がする。あくまでこれはまだ気がするというふわふわとしたものではあるが。数学ガールは自分みたいな数学素人にもできるだけ分かりやすく書かれているが、それでも難しい。理解できているのかいないかのよく分からない。それでも、このシミュレーション仮説にある自分の見えている景色はトポロジーにおける開近傍の概念と同じに感じる。

プレイヤーは世界Sにおける点aで、そのaを持つ開集合を開近傍という。まぁなんのこっちゃという感じで、自分でも説明できるほど理解できていないのだが。

 

ポアンカレ予想は4次元空間を扱った予想だから、高次元を扱った数学の問題になる。数学ガールのなかにとても興味深いやりとりがでてくるので引用しておく。

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3次元サイコロ面を3次元で見る

「あいかわらずだよ。本を読んだり、数学の問題を考えたり」と僕は答え、先日話した4次元サイコロ・・・・つまり、3次元サイコロ面のことを手短に説明した。「8個の3次元サイコロ体を貼り合わせて、3次元サイコロ面を作ったんだよ。でも、ユーリは次元を落とすときに重なってしまうのが気になるらしくて」

「ふうん・・・無限遠点を足した上で裏返すのはどうだろう」

「裏返す?」

僕がそう言うと、ミルカさんは書く仕草をする。僕に筆記用具を出せと合図しているのだ。そんなことを言われても、筆記具はぜんぶ学校に置いてきたんだから・・・僕は《ビーンズ》の店長から紙とボールペンを借りる。

ここで、大きな立方体は裏返しになっていると考える」

「どういうこと?」

「君はこの図形の外側の全宇宙のことを、立方体の《外》だと思っている。しかし、立方体の《中》だと考えてみる。3次元サイコロ体の《中》に全宇宙が入っているんだよ」

「いや、意味がわからないんだけど」

「たとえば無限に広い宇宙を考える。その中に、ガラスでできたこの立体が浮かんでいるとしよう。そのとき、周りの全宇宙が8個目の立方体の《中》となる。そして、この宇宙全体を《中》に抱えている裏返しの立方体は正方形の面を6個持っていて、それがピラミッドの6個の底面に貼り付いているということ

「うっ!」と僕はおかしなうなり声を出した。なんだその発想は!

「見えたかな」

「見えた。ぐるりと裏返した立方体ということだね!」

「そうだ。3次元サイコロ面を3次元にむりやり押し込めた様子は、そんなふうにも描ける。位相的には無限遠点を加える必要があるけれど」

                                    P177-178

 

3次元サイコロ面は「3」とついてるけど、これは4次元の物体(というか空間)である。サッカーボールは3次元の物体だけど、その表面は2次元の面である。これと同じで3次元サイコロ面は4次元だけど、その表面は3次元であるからそのように名づけられている。上の図はその3次元サイコロ面を無理やり3次元にあらわしたもの。

 

これ、シミュレーション仮説とすごく似ていると思うのだが。

数学ガールにある僕とミルカさんのやりとりにあるように、3次元サイコロ面をむりやり3次元に押し込むと、立方体のひとつが裏返しになった状態で立方体に貼り付いている。そしてこの裏返った8個目の立方体は宇宙全体を内包している。

3次元サイコロ面は8つの立方体でできていて、それを3次元におしつぶすとそのうちの一つの立方体が全宇宙を内包しているわけだ。もし仮にこの世界が3次元サイコロ面のようなかたちをしているとしたら、4次元空間には8つの立方体=8つの宇宙が一つに統合された状態で存在している。そして、3次元に世界にいるわれわれは、そのうちの一つの立方体=宇宙のなかにいると考えられる。8つある宇宙の一つをわれわれはプレイヤーとして生きているのだ。

シミュレーション仮説がいいたいのは結局われわれが現実だと思っているこの世界は本当の現実ではないということで、これは映画『マトリックス』でも言っていたことである。3次元サイコロ面の話もこれと似ていて、3次元サイコロ面は本当は4次元空間であり、3次元に存在するわれわれはその一部の面を生きているにすぎないのだ。これはちょうど、地面に映る影が自分の存在している2次元平面を現実だと勘違いしているのと同じである。3次元のわれわれから見れば、地面は3次元世界の一部でしかないのだから、影がある意味で仮想現実を生きていることになる。これの次元を一つあげた世界がわれわれの世界である。4次元空間からみれば、われわれは影にすぎないのである。

 

 

 

組織ってなんでそんなに大きくなりたがるんだろうな

うちは付き合いで聖教新聞をとっている。聖教新聞っていうのは創価学会が発行している広報機関紙。家族は誰も読んでいない。IHクッキングヒーターが油とかで汚れないように新聞をひいている。そうすると料理をするとき嫌でも目に入る。普段記事は読まないのだが、引いてあったいつの日かの新聞にマンガが載っていたので、料理がてら読んだのだが、気持ち悪い内容だった。主人公は40代のおっさんで、しょっぱな20年ぶりに大学の同級生を呼び出して学会に勧誘する。どういう神経してんだ?20年ぶりに呼び出しておいていきなり学会に入らないかとか、この主人公頭おかしいだろ。当然その同級生は「絶対入らないからな!!!」と怒る。でも、その同級生は主人公のおっさんに「でも久しぶりに会えてよかったよ。また今度飯食いにいこう!」と言う。この同級生、人が良すぎるよ。その後、主人公のおっさんは悩み始める。おれは真剣に友のために祈っていたのか?そして学会員どうしの集まりでこの悩みを吐露すると、励まされる。他の学会員も、今度年下の後輩を学会勧誘します!とか、自分は今度友達に自分が学会活動していることを打ち明けます!とか宣言していて、それをみんなで励ましあっている。まぁそんなくだらない内容だった。いろいろと気持ち悪いなと思った。まず、自分のために他宗教の人間が勝手に祈ってるていうのが気持ち悪い。学会員はそれが善いことだと思っているのだろうか、いや思ってるからそういうことをするんだろう。自分だったら余計なことするなと思うんだけど。仮に空飛ぶスパゲッティモンスター教徒がいきなり目の前に現れて「あなたが幸せになれるよう祈ってる」なんか言ってきたら、誰だって気持ち悪いと思うだろう。学会員だってそれくらいの想像はできるだろうに。あと、学会員って集まりでみんなこういうこと宣言しているのだろうか?なんでそんなに仲間を増やしたがるんだろう?そりゃ自分の周りの人を幸せにしたいという願いがあるからだろうけどあくまでそれは建前で、創価学会や他のさまざまなの宗教や組織を見ていてもそれを超えたものを感じる。なんていうのかな、権力を握る人間がより大きな権力を求めようとするあの感じ。権力を握ることが自己目的化した、そういった腐敗を感じる。仲間の幸せを願い仲間が組織に入る、そして組織が大きくなる。この場合、組織が大きくなることは結果にすぎないわけだが、マンガを読んでいると組織を大きくすることが目的になっているのではないかと感じた。だから主人公は悩むのだ。自分は本当に同級生の幸せを願っているのかと。このマンガ全体から感じたのは、なぜ仲間を勧誘するのか学会員自身がよく分かっていない状態で勧誘していることだ。組織を大きくすることが自己目的化していて、一体なんのために勧誘しているのか分からなくなっているように感じる。活動していくうえで仲間は多いほうがいい。これは分かる。でも強引に勧誘して組織に入れることが本当にその人のためになっているのか。創価学会は嫌われているから、学会員はこうしたことを自問自答していると思う。これはマンガの世界の話ではなくて、実際に学会員みんなが思っていることなんだろう。想像するに、末端の学会員はなぜこんなに苦労してまで、人に嫌われてまで仲間を増やさなきゃいけないのかと思ってる。そんななか上の学会員が「とにかく仲間を増やすことが大事です。勧誘しましょう」とそれこそ題目のように唱えている。仲間の幸せのことなんて考えていない、とにかく組織を大きくすることが大事なのだ。組織の上に行く人間ほどそういうことを考えている。たちが悪いのは、仲間を増やすことは自分の功徳につながっているという論理を使っていることだ。だから熱心な勧誘が行われ、強引な勧誘競争が起こる。こうして組織の腐敗が始まるのだ。組織の腐敗は、末端と中枢のすれ違いによって生じる。今のロシアだってそうだ。組織を大きくすることが自己目的化していてどうしようもなくなっている。ロシアも、結局割を食っているのは国民や戦場に送られている兵士でここでも組織の中枢と国民のすれ違いが起こっている。ロシアが戦争に勝ちウクライナを手中におさめたところで、ロシアはすでに組織が腐って内部崩壊しかけているから遅かれ速かれこの国家は崩壊するだろう。ロシアだけでなく日本もそうだ。日本も組織を維持するために必死に少子高齢化を改善しようとしているが、末端から腐り始めている。やけくそになって電車や病院で放火したりする人間があちこちで出始めている。子どもの出生数が84万人だったが、個人的にはこれが国家への静かな反逆だと思っている。かつて子どもは天からの贈り物だと考えられていたが、今では子づくりと表現するように、作られるものだと考えられている。子どもができるのは喜ばしいことだが、国家が子どもを作るのを推奨するのは、それが喜ばしいことだからというよりも単に国を維持する歯車が増えるからだ。国民の多くは国家のこうした思惑を無意識に感じ取っている。日本も少しずつ末端から腐っており、遅かれ速かれ内部崩壊するだろう。

組織は当然大きいほど力がありそれによってできることが増えていく。大きいほど技術が発展し国民の生活は豊かになり国外に対しても発言力を持つ。だがしかし、大きくなればなっていくほど、末端と中枢のすれ違いが起き内部崩壊が始まる。ちょうどいいバランスの規模で組織が維持できればいいのだろうが、難しいのは国家が置かれている状況が資本主義システムであることだ。資本主義は膨らみ続ける風船のようなもので、現状維持を許さない。破裂するまで膨らみ続ける。ロシアや中国は資本主義国家ではないが、これらの国もまた資本主義国家とやりとりしているわけで、関係ないわけでない。しかもロシアや中国は資本主義とはべつにさまざまな問題を抱えている。このように考えると結局、組織のありかたとして何が正解なのか分からなくなる。

試験の前日は東日本大震災だった

今週のお題「試験の思い出」

 

あれからもうすぐ11年がたとうとしているのか。そう思うと時の流れを早く感じる。試験の前日は東日本大震災だった。前期大阪大学を受けたけど落ちてしまい、後期試験で神戸大学を受けるために神戸に向かっていた。2011年の3月11日。その時間は高速バスに乗っている時間で揺れには気づかなかった。神戸が揺れたかどうか知らないが、後日奈良女子大学を受けた同級生が奈良は揺れたと言っていた。浪人しているうえに絶対受かると思っていた大阪大学に落ちたから精神的にきつい状態で神戸に向かっていたと思う。夕方三宮について宿泊する予定のホテルに向かうが、迷子になって三ノ宮駅のまわりをうろうろしていた。駅前で号外を配ってる人がいて、自分の目の前にいた女子高生たちが号外を見て「ヤバくない!?」みたいなこと言ってて、自分も号外を見たら地震で大火災が起こっている旨のニュースが写真とともに掲載されていた。とんでもないことが起きていると思った。駅から歩いて5分のホテルに1時間かけてたどりつき、その後は部屋でずっとテレビで震災関連のニュースを観ていた。どっか駐車場に大量にとめてある車が火災で全部燃焼していた。受験勉強しようかと思ったが、映画のような光景を映し出すテレビをずっと観ていた。次の日の朝、ホテルの朝食会場でニュースを観ていると、東北や関東の大学は軒並み試験中止か延期のテロップが流れていた。こんな大変なことが起こっているなかで試験なんかやってる場合なんだろうか、自分が受ける大学は試験をやるんだろうかと思いながら朝食を食べていた。後期試験は滞りなく行われ自分は神戸大学に合格した。

 

浪人しているときはふいに訪れる不安によく苛まれていた。また落ちるかもしれないという不安ではなく、自分は本当に理解しているのかという不安。テストで点はとれていたし、模試の判定も良かったが、自分は本当は何も理解していないのではないかという不安がふいに訪れてそれにふたをするのに苦労した。現代文は、答えになりそうな箇所から適当に文章を引用して切り貼りしていたら点が取れた。解答例も実際、本文からコピペしてきた文章だった。文章の意味がよく分かっていなくても、目星をつけた箇所からコピペして点を稼ぐことができた。微分積分や関数でも、微分積分が一体なんなのかよく分かっていなかったが、何をすれば答えが導けるかは知っていたので教えてもらった手順に従って解答することができた。実際にそれで問題はなかったし、阪大には落ちたがセンター試験は87%の得点を稼ぎ神戸大に合格した。

 

母校にはとても複雑な思いをもっている。

大学に行って気づいたが自分はそこまで頭がよくなかった。自分が神戸大学に合格できたのはひとえに高校のおかげである。田舎の進学校にありがちな熱心な指導のおかげで自分は合格できた。そして大学で学問する自由を得た。自分は自発的に勉強する人間ではなかったから、あの熱心な指導がなければ神戸大どころか岡山大にすら受からなかったかもしれない。自分は浪人時代はかなり勉強したし、そのことは今でも誇りだ。だから高校にはとても感謝している。しかし、学問をするうえで高校3年間と浪人1年間の勉強は何一つ役にたたなかったどころかむしろ足かせになった。自分は中学3年生のときふと疑問に思ったことを大学時代にひたすら掘り下げて卒業論文を書いた。自分の卒論は普通ではなく、査読した教授からも「君の卒論は論文の型にはまっていない」と発表会のときに言われた。その後に「しかし私はこの論文が好きだ」と告白された。もちろん評価は最高の「秀」だった。自分の卒論の礎は中3のときのふと思った疑問なのだが、高校浪人時代はこの疑問をいっさい掘り下げることができなかった。勉強や部活であまりに忙しかった。週明けテストや単元テスト、中間期末、校内模試、進研や河合、駿台、代々木模試…、クソみたいな無意味なテストのオンパレード。自分の疑問は学校の勉強とは関わりのないものだったし、そんなことを考える時間さえなかった。学問という観点からみれば本当に無駄な4年間だった。だから複雑な思いをもっている。高大接続についていろいろ議論がなされているが、個人的な経験からいえば高校までの勉強は大学の学問に接続されるどころかむしろ足かせになっている。

 

浪人時に苛まれていた不安は、本当は学問の萌芽だったのだと今では思う。正解を導いて得点できているにもかかわらず、自分は本当に微分積分を理解しているのだろうかという不安は学問への入り口だった。あのとき入り口にふたをせず微分積分について深く考えていれば自分はもしかしたら数学者になっていたかもしれない。しかし、おそらく神戸大学には合格できていなかっただろう。微分積分についての学問を始めなくたってテストで点をとれていたし、そんなことをしていれば他の科目に手がつかなくなる。微積の問題なんてテストではほんの一部だ、微積の勉強だけに時間をかけていてはいけない。そういうことで、あのころ自分はさまざまな学問の萌芽を自らの手で摘んでいたのだ。大学に受かるために。しかし、その大学は学問の萌芽を育てるところではないか。教育学者や文部科学省はこの矛盾についてもっとよく考えたほうがいい。

 

大学に受かっていろいろな背景を持った人たちに出会って自分の生きてきた世界がいかに狭かったか実感した。田舎出身というのもあって都会は衝撃だった。いろんな人がいたから。自分がたくさん勉強したことは誇りだし後悔はないし、いい大学に行けたからなおさら良かったが、高校いや中学のころからでももっといろいろやれていたんじゃないかと思う。あのときは、中学や高校が押し付けてくるさまざまな要求をただ受動的に受け取っていただけだった。もったいなかったなと思う。

西田幾多郎の哲学を4次元空間をつかって解釈する

福岡伸一と池田善昭の『福岡伸一、西田哲学を読む』を読み終わった。

 

この本は、『生物と無生物のあいだ』で有名な生物学者福岡伸一が西田哲学の研究者である池田善昭の助けを借りながら西田幾多郎の哲学を生物学の視点から読み解いていくという内容である。福岡伸一の提唱した動的平衡という生命の定義が西田幾多郎の哲学と通底していると感激した池田。福岡は西田の哲学の難解さに苦戦しながらも池田の解説を足掛かりに生物学と西田哲学の融合を試みる。

 

動的平衡とは流れである。

鴨長明の『方丈記』の冒頭、「ゆく川の流れは絶えずしてまたもとの水にあらず」が動的平衡を端的に表現する。川それ自体は変わらないけれども、その川を流れる水は常に流れ一瞬として同じではない。生物もまた、見た目が変わっていなくともそれを構成する細胞は常に破壊され同時に創造されている。この動的なプロセスそのものが生命なのだ。生命は破壊と創造という矛盾を同時に抱えているといえる。西田哲学もまたその用語は常に矛盾を体現している。絶対矛盾的自己同一、逆限定、一即多、多即一など。西田の考える生命もまた、矛盾を内包した実在なのである。

 

西田哲学はどうしても用語が難解であるがゆえに読解が非常に困難である。西田と通底した生物哲学を持っている福岡でさえ悪戦苦闘する。

話が少しそれるが、この前『「勤労青年」の教養文化史』という本を読んだ。

本屋で見つけたこの本の帯に写真が載っていて、建物の周りに人々が寝ている光景が写っているのだが、自分は最初乞食の写真かなと思った。でも、それは西田幾多郎の本を求めて本屋の前で一夜を明かす青年たちの写真だった。1947年の頃の写真で、戦後の物資も何もない激動の時代に、青年たちが求めていたのがこの難解な哲学書だったという事実に驚かされる。今の青年で西田幾多郎を知っている人なんているのだろうか?もしかしたら京都大学の学生ですら知らないんじゃないか。巷では教養ブームが巻き起こっているらしいが、西田の哲学書は読まれているのだろうか。教養ブームとかいいながらその実読まれているのは薄っぺらい自己啓発本ではないのだろうか。

 

西田は禅に傾倒していたから、用語が矛盾を孕んだものになるのだろうか。いやそうではない。自然、ピュシスがそもそもロゴスの観点から見れば矛盾を孕んでいるのだ。ロゴスは矛盾してはいけないので、どうしてもピュシスを矛盾のないように説明しようとする。それゆえに、ロゴスは常に真理から逸脱したものになる。プラトン以来の哲学はロゴスに立脚したものであったがゆえにピュシスを常に誤ったかたちでとらえてきた。プラトン以前の哲学者であるヘラクレイトスは、ピュシスは常に隠れていると述べた。20世紀最大の哲学者であるハイデガーは存在は常に隠されていると述べた。本来の哲学とは、隠されたものを明るみに出すプロセスをいう。そうした意味で、西田はプラトン以降の伝統哲学とはべつのやりかたで哲学を行ってきたと池田はいう。西田はその隠されたピュシスを正確にとらえようとしていたのだ。だからこそ、ロゴスの観点から観て矛盾している用語を西田は繰り出すのだ。

 

西田によれば、生命と環境は「包まれつつ包む」関係にあるという。

生命はまわりの環境に包まれている。と同時に、生命はまわりの環境を包んでいるという。前者は分かりやすい。しかし、後者は分かりづらい。生命がまわりの環境を包む、なぜ小さい生命が大きな環境を包んでいるのか?福岡はこれが理解できずに苦しむ。池田は年輪をたとえにだす。環境は木にさまざまな影響を与える。暑さや寒さ、雨や雪など。それが年輪に反映される。これが環境が年輪を包んでいる状態。同時に、年輪は環境に影響を与える。年輪が環境を包んでいる、これを福岡はよく理解できない。年輪が環境に何がしかの影響を与えているようには見えないからだ。池田は「時間」という観点を通して福岡に説明する。年輪というのは時間の流れを示している。時間の移ろい、環境の変化を年輪は示している。年輪という模様がその環境を表現しているのだ。これが年輪が環境を包んでいるということ、そう池田は福岡に説明する。福岡はやっと理解する。

 

個人的には、まぁ言わんとしていることは分かるが、それでもやっぱり難しいなぁと

思う。自分は「包まれつつ包む」というのを以下のように考えた。

まず、生命というのは4次元なのだ。空間的な意味で4次元。われわれは3次元空間に存在していると思っているが、生命は4次元空間の存在である。その4次元存在が3次元空間に姿を現していると考える。それがわれわれが見ている自分自身である。

4次元の超立方体を3次元に射影すると以下のかたちになる。

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https://www.moguravr.com/tesseract/

4次元の超立方体を3次元に射影すると、上のような、小さな立方体を内部に抱えた立方体になる。4次元の超立方体は展開すると8つの立方体になる。しかし、上の図のように3次元で表現しようとすると、7個しか描けない(真ん中の小さい立方体のまわりに6つの立方体がくっついて計7つ)。では残りの一つはどこかというと、この大きな立方体の外側に裏返した状態でくっついているのだ。なかなかイメージが難しいが、残りの一つは外側の大きな立方体のまわりということになる。

 

次元を一つ下げても同じことがいえる。

3次元のサイコロを2次元に押しつぶしたかたちで描くと以下の図になる。

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サイコロは6つの正方形からできている。それを2次元に押しつぶしたかたちで表現しようとすると、上のように5つしか描けない。では残りの一つはどこにあるかというと、これもまた同じで、外側の大きな正方形の外側に裏返したかたちでくっついている。これもまたイメージが難しいが、4次元の超立方体よりは分かりやすいかと思う。

 

4次元の超立方体に戻ろう。

仮に生命が4次元の超立方体のようなかたちをしているとして、それを3次元に射影すると上の図のように、内部に小さな立方体を抱えた立方体になる。で、その外側に裏返した立方体がくっついている。

さてここで西田のいう生命と環境の「包まれつつ包む」関係を考えてみよう。

内部に小さな立方体を抱えた立方体が3次元に射影された生命なわけだが、その外側が環境であり、上の図を見れば分かる通り、環境が生命を包んでいる。しかし、その外側とは何かというと、外側も生命の一部なのだ。外側とは何かというと、立方体を裏返したものだった。環境もまた生命の一部、つまり生命も環境を包んでいるのである。

 

西田の生命論には次のような言葉が出てくる。

外に出ることは内に入ることであり、内に入ることは外に出ることである

福岡はこのことを生物学の視点から解釈する。

福岡 細胞の中から(細胞内部で作られたタンパク質が)外に出る時には、実はいっ

   たん細胞の中に入らないと外に出られないんですよね。

池田 うん、うん。

福岡 「内に入ることは外に出ることである」というのは、まさに、細胞の中に入る

   ということは、細胞の外にある状態とトポロジー的にイコールである、と読み

   替え可能です。わかりやすく言うと、細胞の中の中に入るということは外、つ

   まり細胞の外に出るということと同じだということなのですが、(以下略)

                                       P175

 

3次元に射影された超立方体を見ると、大きな立方体のなかに小さな立方体を抱えている。この小さな立方体の状態は「中の中」にあたる。そして、すでに説明したように、この小さな立方体は、大きな立方体の外側に貼り付いている立方体と同じものである。つまり、「中の中」と「外」は同じである。これが福岡のいうところの、細胞の中に入るということは、細胞の外にある状態とトポロジー的にイコールであるということである。これをアニメーションで表現したものが以下の図である。

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西田は時間に対しても、とても難しい説明を施している。

過去は、現在において過ぎ去ったものでありながら未だ過ぎ去らないものであり、未来は、未だ来たらざるものであるが現在において既に現れているものであり、「現在」の矛盾的自己同一として過去と未来とが対立し、「時」というものが成立するのである。

まぁなにを言ってるのかちょっと分からないよな。

でもこれも次元を使って説明すると理解できるのである。

 

matsudama.hatenablog.com

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詳しくは上の記事で説明したが、3次元の球が2次元世界を通過するときさまざまな大きさをもった円として現われる。『フラットランド』という物語でこの過程が描かれていて、球はフラットランドという2次元平面を上下してやりながら、球はさまざまな大きさを持った円の集合であることをフラットランドの住人に教えてやる。これが西田の時間論を理解する手がかりになる。

 

3次元の球は2次元の円の無限の集合である。球がフラットランドの上から接しているとき球はフラットランドに直径0の円、つまり点として存在している。そこから球が下に行くにつれて少しずつ円が大きくなる。半分に達したとき最大の大きさを持った円になる。今度はそこから少しずつ円が小さくなっていき最後球がフラットランドの下に抜けるとき再び直径0の点になってその後消える。

 

これを説明したものがリサ・ランドールの『異次元は存在する』にあったので掲載しておく。

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P16より

リサ・ランドールは物理学者で余剰次元の存在を研究している女性だ。もし余剰次元の存在が証明されれば、生命が4次元空間に存在しているという可能性も出てくる。

 

ここで、球がフラットランドに最大の直径を持った円として存在している時を「現在」と呼ぶことにする。であれば、球がフラットランドの上に接しているときは「過去」であり、下に接しているときは「未来」になる。

しかし考えてみてほしい。球がフラットランドにどんな大きさを持った円として存在していようと3次元世界では相変わらず球として存在している。2次元世界からみれば球はいろんな円として存在していてそれに応じて過去・現在・未来が判別される。しかし3次元の球は、2次元世界における過去の円・現在の円・未来の円がすべて統合されたかたちで存在している。2次元世界における過去、球がフラットランドの上に接しているとき、球はフラットランドに点として存在していたわけだが、その点も現在の球は含んでいる。また、未来、球がフラットランドの下に接するとき、これも球はフラットランドに点として存在するのだが、この状態も現在の球はすでに含んでいる。これが西田の説明にあるところの、過去は過ぎ去っていながら未だ過ぎ去っていない、未来は未だ来たらざるものだが既に現れているという状態である。つまり、2次元世界における時間は3次元では統合されたかたちで存在しているのだ。2次元世界から見た過去・現在・未来は、3次元世界では矛盾的自己同一した状態にある。そしてこれを別のかたちで表現すれば、時間は存在していないということと同じなのだ。西田は矛盾した自己同一状態を絶対無の場所と説いた。2次元で分かれた時間は3次元においては意味を成さない。統合された状態にあるからである。つまりそれは絶対無なのである。2次元からみれば3次元は絶対無の場所である。

これは次元を一つ上げた世界でも同じである。つまり、3次元と4次元でも同じことがいえる。われわれの存在している3次元における過去・現在・未来は4次元では統合されている状態にある。それは矛盾した自己同一であり、3次元からみれば4次元は絶対無の場所である。西田の説明が難解なのは、4次元を3次元のロゴスで説明しているがためである。

 

生命の実在が4次元ならば、物事の説明がクリアになる。少なくとも自分は3次元と4次元の関係性を使うことで、西田哲学をすんなり理解できる。これを読んだ他の人はどうか知らないが。シンプルにいってしまうと、次元が一つ上がった世界では、その下の世界から見れば矛盾した表現でないと説明することができないのである。それは裏を返せば、無なのである。西田はそれを矛盾した自己同一状態とか絶対無とか、包まれながら包むと表現しているのである。

 

 

 

 

なぜ心は見えないのか

ずっと不思議だった。「心はどこにある?」と訊かれたら、われわれは胸を指したり、頭を指したりする。つまり、われわれは心は自分自身の中にあると思っている。しかし心と呼んでいるそれはわれわれの身体を解剖してみたところで見つかりはしない。これが不思議だった。心はわれわれのなかにあると実感しているのに、それは身体のどこにも見当たらないのだ。

 

都築卓司の『四次元の世界』を読んでいる最中に自分自身は了解した。

 

心はわれわれの中にあるのにどうして見えないのか?それは心が4次元の存在だからである。われわれには第4の次元は知覚できない。だからこそ心は目に見えないのだ。そしてわれわれは、というかこの世界そのものは心が射影された空間なのだ。

 

おそらくわれわれが目にしているこの世界は心が3次元化された世界である。そしてそれはわれわれの中にある心と同じものである。これは4次元立体をむりやり3次元に押し込めた図を見たときにひらめいた。

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wikipediaより引用

これが4次元立方体を無理やり3次元に押しつぶしときに描かれる図である。この4次元立方体は8つの立方体からなっていて、3次元化するときに1つを取り除いて押し込んでいる。では残りの一つはどこかというと、まわりの6つの面に貼り付いているのである。イメージがとても難しいので、次元を一つ下げて説明する。

 

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これは3次元立方体であるサイコロを無理やり2次元に押しつぶした図である。サイコロは6つの面で構成されているが、2次元に押しつぶす際に6の面を取り除く必要がある。だから上の図に6の面は見えない。では6の面がどこにあるかというと一番外側の4つの辺に貼り付いているのである。2・3・4・5の面の外側の辺である。6の面というのはつまり、この一番外側の大きな正方形(2345の外側を辺としている正方形)を裏返したものである。

 

先ほど、われわれが目にしているのは心が3次元化された世界で、それはわれわれの中にある心と同じものである、と書いたが意味が分かっただろうか?

サイコロの1の面と6の面は同じである。大きな正方形に囲まれている1の面とその大きな正方形の外側に貼り付いている6の面は同じである。1の面は心であり、6の面がわれわれが目にしている世界である。これの一つ次元を上げたものがわれわれにあたる。4次元の心を無理やり3次元に押しつぶしたものがわれわれである。大きな立方体が自分自身であり、その大きな立方体の中にある小さな立方体がサイコロの1の面にあたり、それが心である。そして大きな立方体の外側に貼り付いている立方体がサイコロの6の面にあたり、それがわれわれの見ている世界である。われわれの中にある心はわれわれが見ている世界と同じ空間であるが、あくまでもこれは4次元存在であるわれわれを無理やり3次元に押し込んだものである。本質は4次元にある。

 

心は4次元であり、心を無理やり3次元に押し込んだものが上の立方体である。勘違いしないでほしいが、心のかたちが立方体であるわけではなく、あくまで数学的なイメージである。この3次元に無理やり押し込まれたものがわれわれである。われわれの中には心がある。そして外側には世界がある。

 

自分自身も含めてこの世界そのものは心を無理やり3次元に押し込んだものである。べつの言い方をすれば、4次元空間に存在する心が、3次元空間に映している射影である。われわれが目にしているものはすべて心の影である。

 

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これはルビンの壺である。壺を見ているとき、向かい合っている人間は見えなくなり、向かい合っている人間を見ているとき壺が見えなくなるという心理学でよく説明されるあれである。

matsudama.hatenablog.com

 

上の記事でもルビンの壺を使って世界認識について説明したが、それをおしすすめて新しい世界認識を提供しよう。われわれの世界認識というのはつまるところこういうことである。今、目のまえに壺があるとする。われわれは、壺は壺自体で存在していると思っている。しかしそれは違う。壺は4次元の心によって射影された影であり、われわれはその影を知覚しているのである。つまり、壺は向かいあう二人の自分自身(4次元と3次元の自分)の「関係」によって認識されるのである。この世界のあらゆる現象は、二人の自分自身、光と影のあいだに生成されるのだ。

 

このような世界認識を得ると、何が明らかになるのだろう。

それはおいおい考えていきたい。

 

 

 

砂川文次の芥川賞受賞作『ブラックボックス』を読んでクモの巣にひっかかったような気分になった

砂川文次の芥川賞受賞作『ブラックボックス』を読み終わった。

 

前半は自転車配達業の話で、後半は刑務所の中での話。

選考委員の一人が「現代のプロレタリアート作品」と評していたが、確かにそのとおりだと思う。メッセンジャーとして自転車で品物を配達する個人事業主のサクマは癇癪持ちで、怒りがたまってくると言わなくてもいいことを言い、それで人間関係を悪くして仕事をやめる。手もあがってしまうので逮捕もされる。現代の底辺をさまよう主人公。

彼は生き方が不器用で、だからこそ人間関係も悪くし、そんな自分を大人になりきれないと卑下している。ただ個人的な印象では、彼は自らに素直な人間だと思った。彼の文脈でいけば、大人になるということは自分の怒りを抑え言わなくてもいいことを言わないということだ。そして、世の中の大人と呼ばれる年齢に値する人間のほぼすべてがこれを実践できている。だけど、その世の中の多くの大人は自分の中にふつふつと沸き起こる怒りを貯めすぎて、そのせいで内部崩壊している。それはうつ病であったり、ひどくなれば自殺、もっとひどいのはこの前の大阪で放火したじじいみたいに周りを巻き込む拡大自殺を引き起こす。主人公のサクマも、税務署の職員や警察に暴力をふるって逮捕されるのだが、ある意味ではサクマのようにその都度その都度怒りを発散させられる人間は、自分のように貯めこんでしまう人間からみればうらやましいなと思う。

 

サクマは逮捕される前、同棲していた彼女から妊娠を告げられ「子どもができるんだからしっかりしてよ」と叱咤される。しかしサクマにはこの「しっかりする」ということが分からない。この感覚、めっちゃよく分かる。自分にも「しっかりする」ことがどういうことなのかよく分からない。メッセンジャーとして働いていたサクマは、職場で言わなくてもいいことを言ってしまいシフトを減らされる。そこで似たような仕事であるウーバーイーツを始める。お金はたしかに入って来るが、個人事業主なので不安定である。正社員になろうかとも思うが、配達業よりも賃金が低い。自転車で配達する仕事なので資格をもっているわけでもないし、そもそもそれ以外の事務作業などもできない。職場のねちねちとした人間関係も、サクマには耐えられない。こういう性分がサクマの足かせとなってしっかりすることができないのである。

 

サクマは逮捕され、刑務所暮らしが始まる。ここでも暴力沙汰を起こす。雑居房の同居人がいじめられているのを見て不快に思ったサクマはいじめてたやつをぼこぼこにする。それは単にいじめていた奴が不快だったから殴っただけなのだが、ちょっとした英雄のようになって他の受刑者の計らいによって食事が増やされたりする。サクマは受刑者たちの勘違いに戸惑う。この暴力行為が原因で独房で50日過ごすことになるのだが、ここで一人いろいろ考えていくなかで、刑務所のなかでの暮らしが過ごしやすいことに気付く。それは制度がしっかりしているからだ。毎日規律正しく過ごし、その先に刑期の終わり、ゴールがある。このような分かりやすいルートが、逮捕されるまでのサクマの人生にはなかった。メッセンジャーの仕事をしていたとき、同僚の横田の言う「ゴール」が一体なんなのか分からなかった。毎日毎日同じことの繰り返しで、その先に何があるのか分からなかった。しかし刑務所での生活を通して、サクマは人生というものは毎日少しづつ違っていてその先にゴールがあることに気付く。物語はそこで終わる。

 

現代のプロレタリアートの不幸の原因は実は自由にあるんだと思った。

この前コテンラジオを聴いてて、どの回だったかもう忘れたが、人間は自由になったとたんうつ病が増えたみたいなことを言っていた。江戸時代のように、生まれによって自分の身分や職業が決まっていると、われわれは不自由だなと感じる。資本主義社会になると一転して身分や職業が個人の自由によって勝ち取れるようになった。これは一見すばらしいことのように思える。しかし自由になるとなんでもできる分、選択肢が増えすぎて戸惑ってしまうのだ。自分でなんでも決められる、これは裏を返せば、何でも自分で決めなければならないということだ。それは実は大変なことなのである。真っ白いキャンバスがあって、何でもいいから自由に描きなさいと言われるよりも、目の前の木を一生懸命に描きなさいと言われるほうがはるかに楽だ。なんでも楽したがる人間にとって自由は重すぎるのである。誰だったっけ、サルトルだったかな、「人間は自由という刑に処せられている」と言ったのは。そういうことである。

結局、現代のプロレタリアートの象徴であるサクマは自由すぎる現代のクモの巣にひっかかっているわけである。もがけばもがくほどからまってどうしていいか分からない。もしサクマが江戸時代のような不自由な社会に生まれていたらひとかどの人物になっていたかもしれない。ゴールが見える楽な社会だったからである。

 

多様性を尊ぶ社会になってきてはいるが、自由であることによって生きづらさを抱える人間が出たように、多様性によって生きづらさを抱える人間も出てきているんだろうな。まぁ本当に人間ってのはひねくれた生き物ですよ。

 

 

この世界は『マトリックス』とは逆の意味でマトリックスかもしれない

この前『マトリックス』を再鑑賞した。

 

何回観ても面白い。

20年以上も前の映画だというのにまったく古く感じないし、それどころかむしろ新しささえ感じる。観るたびに発見があるし、新しい気づきを与えてくれるすばらしい作品。

 

最近、人間は3次元存在ではなく4次元存在ではないかと考えている。4次元というのは3次元空間に時間を加えた4次元という意味ではなく、3次元空間にもうひとつ異なる軸のベクトルを加えるという意味での4次元である。人間の本質は4次元にあって、3次元世界にいると思っているこの私という存在は、4次元存在である私の一つの影にすぎないのではないかという仮説についておれは考えている。『マトリックス』を観ていると、自分の仮説もあながち間違っていないのではないかという気持ちがさらに強まった。

 

マトリックス』におけるマトリックスとは「仮想現実」のことであり、われわれが存在していると思っているこの現実は実は虚構にすぎないというのがこの映画の骨子だ。はるか昔、人間は機械との闘いに破れた。人間は機械を倒すために核を使って空を覆い機械の動力源となる太陽光エネルギーが届かないようにした。闘いに勝った機械は、太陽光エネルギーのかわりに、人間の生体反応によって生じる電気を動力源にすることにした。人間は機械によって栽培され乾電池化された。電極につながれた人間が乾電池としての役割を果たしているあいだに見ている光景がマトリックスなのである。ほとんどすべての人間がマトリックスを現実だと思いこみそれが虚構にすぎないということに気づかないまま一生を終える。しかし主人公のネオのように、一部の人間がこの世界は何かおかしいんじゃないかと疑問を抱く。そこにトリニティやモーフィアスが現れネオを本当の現実へと導いたのだった。

 

マトリックス』は、われわれが見ている感じているこの世界はコンピューターによるプログラムにすぎず本当の世界は別にあると教えてくれる。この考え方は、この世界、われわれが生きているこの世界に当てはめても正しいようにおれは思う。この世界が本当は4次元であるならば、3次元世界はある意味では虚構であるということになる。

4次元空間はわれわれには見えないのでイメージがしづらい。次元を落として考えてみよう。われわれは3次元空間にいる。3次元の身体を持ったおれに光を当てると地面に影ができる。この影は2次元だ。影は地面という2次元に存在している。影は地面や壁といった2次元平面のうえでしか存在できない。この影がおれ同様に人格を持ち思考できるものとする。影は2次元平面上でしか移動できず、第3の次元を認識することはできない。影は第3のベクトルである「上」を見ることができないからだ。だから影にとっては2次元平面こそが世界のすべてだと思っている。しかし3次元世界に存在しているおれから見れば2次元平面は世界のすべてではない。たしかに影の存在できる地面や壁といった2次元世界は存在している。しかしそれは3次元世界からしてみれば、世界の一部であって、世界のすべてではないのだ。影がすべてだと思っているその世界は、われわれからしてみればある意味で虚構なのである。

以上のことを一つ次元を上げて考えてみる。この世界は実は4次元であり、われわれが存在している3次元のこの世界はその一部であって、すべてではない。4次元に存在するわれわれからしてみれば、3次元世界にいるわれわれはその影なのである。たしかに3次元世界は存在しているが、3次元世界における地面や壁と同じように、この3次元世界は4次元世界の構成要素にすぎないのだ。この意味において、われわれが存在していると思っているこの世界もまた虚構、マトリックスなのである。

 

ネオはトリニティやモーフィアスによって本当の現実に導かれるわけだが、マトリックスにいるネオの動きはトリニティやモーフィアスからは丸見えだった。ネオの自宅のパソコンには白いウサギを追えというメッセージが表示される。その後自宅にフロッピーディスクを受け取る男女の集団が訪れる。女の肩には白いウサギのタトゥーが入っていた。その女を追った先にいたのがトリニティだった。パソコンにメッセージを表示させたのはトリニティだった。トリニティはあなたのことはすべて分かってるという。夜眠れない訳も、夜な夜なコンピューターで何をしているかも、彼を捜していることも。あなたはある疑問の答えを探している。「マトリックスとは何か?」

マトリックスは至るところに存在する。この部屋のなかにもある。窓の外を見たときも、テレビをつけたときも、仕事場でも感じる。教会でも、税金を払うときも。モーフィアスはそうネオに言う。3次元世界も至るところに存在する。われわれのまわり、存在しているもの、空間、行為、すべては3次元世界である。しかしこれは真実を隠すための虚構にすぎない。真実は3次元世界ではなく、4次元世界にあるのだから。「真実とは何か?」ネオはモーフィアスに尋ねる。「君は奴隷だということだ。君は囚われの身としてにおいも味覚もない世界に生まれた。心の牢獄だ。マトリックスは人に正体を教わるものではない、自分の目で見るしかない」レッドピルを受け取ったネオは本当の真実を知る。

ネオは闘いの訓練を始める。柔術やカンフーのプログラムをローディングしてもらい一瞬でそれをマスターする。そしてモーフィアスと仮想空間で闘う。モーフィアスは動きが速すぎてネオにはとらえられない。モーフィアスは問う「なぜやられた?この仮想空間でスピードの原因に筋力があると思うか?それは本物の息か?速く動こうと考えるな、速いと知れ」ネオはだんだんと知るようになる。そしてモーフィアスを追いつめ「意味が分かったよ」と言う。「心を解き放つんだ、入り口までは案内するが、扉は君自身で開けろ」とモーフィアスは返す。

 

マトリックス』においては、心が身体の牢獄である。心が身体の限界を決める。だからネオはモーフィアスに追いつけない。しかし速いと知ることでネオは覚醒する。そしてモーフィアスの動きを超す。その先に一番有名なシーンである身体をのけぞらせて銃弾をよけるシーンがある。モーフィアスはネオに心を解き放つんだとアドバイスする。

われわれのこの世界はむしろこれとは逆なのかもしれない。心が身体の牢獄なのではなく、身体が心の牢獄なのだ。身体が知覚できるのは3次元までである。われわれが3次元世界がすべてだと思い込んでいるのは身体が3次元世界までしか知覚できないからだ。むしろ身体のほうが牢獄となって世界認識に限界を作っているのだ。われわれの心が4次元にあるとしたら?身体は心の影なのだ。

心が4次元世界にあるとしたら、トリニティがネオのすべてが分かっていたように、心は3次元世界のわれわれのすべてを知っていることになる。トリニティはネオの過去や現在だけでなく、未来さえも分かっていた。だからこそ、ネオのもとに数十秒後に現れる白いウサギを追えというメッセージを送ることができた。心も同じである。心はわれわれの未来をも知っている。しかし3次元世界にあるわれわれはもちろん未来を知らない。ネオが自分自身の未来が分からないように。

しかし心がわれわれの未来を知っているという表現は正確ではないと思う。おそらく心はシュレディンガーの猫と同じ状態にある。つまり心は可能的なすべての状態が重なっているシステムのことをさすのだ。われわれが猫を観測するまでは、生きた猫と死んだ猫は重なり合った状態にある。4次元世界において、生きた猫と死んだ猫は両方存在している。しかし3次元世界にあるわれわれがそれを観測した瞬間、猫はどちらかの状態で存在する。われわれが見るのは猫の影である。4次元にある心には今現在生きているおれと死んでいるおれが重なり合った状態にある。だが今このパソコンに記事を書いているおれは生きた状態で存在している。この生きているおれは4次元から射影されたおれなのだ。

物理学者のカルロ・ロヴェッリは『時間は存在しない』という本を書いたが、彼が言うように時間は存在しない。しかし3次元世界にいるわれわれからすれば時間はあると思っているし、だからこそ電車やバスに乗る時間から逆算して行動している。しかし上記にあるように、心にはすでに未来の死んでいる自分も存在しているのだ。同じように、4次元にある心には未来の電車やバスに乗る自分も重なりあった状態で存在している。つまり4次元では、3次元にあるすべての自己、過去の自己や現在の自己、未来の自己が重なりあった状態にある。過去と現在、未来は融けあっている。だから4次元において時間は意味を成していないのだ。このような意味で時間は存在しない。

 

3次元と4次元の関係性を上記のように理解すると、さまざまなことが理解できるようになる。たとえば禅問答がなぜ論理崩壊するのか。それは禅が教える世界が4次元を指すからだ。われわれは4次元で起こっている現象を3次元世界で解釈するために、論理がおかしいと思うのである。哲学者の西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一も4次元世界のことを指している。3次元世界から見れば、4次元の状態は絶対的に矛盾した状態が自己同一した状態にある。自己同一というのはつまり、あらゆる現象が重なり合っている状態のことだ。そして、そこは絶体無の場所である。3次元世界から見れば、4次元は絶対無の場所である。時間を例に出せば、4次元では過去・現在・未来はすべて重なり合ってそれゆえに意味を成していない、存在していない。つまり無である。しかしその無から射影された3次元世界で、われわれは言葉によって無から意味を生成しているのである。

もしかしたら宇宙のはじまりもこれと同じなのかもしれない。ビッグバンによって宇宙は誕生したというが、ではビッグバン以前はどうなっていたのか?それはまだ誰にも分かっていない。ビッグバン以前は無の状態だった。無というのはつまりすべてが重なり合っている状態である。そこに神が「光あれ」と宣言したとき、無から射影された現在の宇宙が誕生したのかもしれない。

 

マトリックス』は『不思議の国のアリス』をモチーフにしている。アリスは穴に落ちたことで別の世界に行く。ネオはレッドピルを服用したことで、仮想現実から本当の現実へ行く。上記に述べてきた4次元は『不思議の国のアリス』よりも芥川賞受賞作『穴』や『となりのトトロ』に近い。この世界は別の世界とパラレルにあるのではなく、重なり合っているのである。メイやサツキは別の世界に行ったのではなく、あれは彼女達の世界とトトロやまっくろくろすけがいる世界が重なり合っていたのである。4次元はこういうイメージである。さらにいえば、われわれが第4の次元を知覚することができない以上、その第4の次元にトトロやまっくろくろすけが現実に存在している可能性がある。おとぎ話でも空想でもなんでもなく、本当に現実に存在している可能性はある。もちろん神も、悪魔も、ユニコーンもドラゴンも、その次元に存在している可能性はある。

 

「穴」の「穴」 - Living, Loving, Thinking, Again (hatenadiary.com)

 

matsudama.hatenablog.com

 

不思議なのは、物理学者にしろ、数学者にしろ、哲学者にしろ、これらの人たちは4次元の空間については考えるのに、なぜ自分自身については考えないのだろうか?なぜ人間そのものが4次元だという可能性については考えないのか?人間そのものが4次元だという仮定すると、さまざまなことがすんなり理解できると思うのだが。