最近読んだ本や漫画、観た映画の感想

進撃の巨人という神話』

8人の論者がそれぞれの視点から『進撃の巨人』を読み解いたものが収録されている。面白く読めた。

タイトルが進撃の巨人という神話で、「神話」としてあるのは秀逸だなと思う。本当にその通りで、この物語は古今東西の神話に匹敵するほどの壮大で深く完璧な物語だった。これはただの面白い話ではないのだ。すべてのあらゆる要素が詰まっている。だからこそ、どんな学者や批評家評論家が読んでも、解釈ができてしまう。神話や傑作の条件とは、多様な解釈を許す点にある。

精神科医斎藤環が作者の諫山創をいろいろと分析していて、高度に発達した厨二病と評している。斎藤環諫山創は対談したことがあって、精神科医と漫画家が対談するって面白いなと思った。

いろいろな評者が、諫山創はストーリーをよく練っていると評価しているが、個人的には、諫山創が自分の頭で考えてあの物語を作ったというよりはむしろ、あの物語が諫山創を通過して世界に生み出されたというほうが正しいと思う。もちろん現象だけ捉えれば、どちらも同じなんだけど。

斎藤環が、諫山創はあれだけの作品を描いたのにずっと自信がなさそうに見えたと書いている。おそらく、諫山には自分があの作品を作ったという手触りがないのだと思う。ずっと非日常が続いている感覚と本人も言っているし。優れた作品というのは、優れていればいるほど本人は何かに操られているような感覚になる。イスラム教の創始者ムハンマドも、神に舌を操られて、苦しみの中、神の言葉を吐き、それが聖典になった。人間の頭で考えることなどたかがしれているのだ。

ところで、エレンの地鳴らしは人間どうしの戦争のなかで描かれていて、あれを見た読者はみんな残酷だと思った。しかし現実においても、人類は農耕をはじめた瞬間から、ずっと地鳴らししてきたわけで、森を切り開いて動植物を駆逐し、アスファルトを敷いて道路にし動植物を駆逐してきた。そしてこれが戦争だと思っている人間などほぼおらず、人類は自身だけの利益のために無自覚に地鳴らししてきたのだ。駆逐されるべきは人間である。

 

ある日ふとした瞬間に神さまが現れて、神さまの命令がはじまって何も食べられなくなり、いろんなところを触らなければならなくなり、精神病院に入る話。

何か神のような声が聞こえるというのは自分にもあって、でも自分は食べられなくなったり、いろんなところを触って生活が運営できなくなったりということはなかった。むしろ、その声によって、人生の落とし穴にはまらず今までやってこれたという感覚がある。著者のもつおと自分の違いはいったい何なのだろう?

その声の主が見えないものである以上、何も語れないが、物事がうまく進むか進まないかは紙一重なのだと漫画を読んで思った。身も蓋もないが、すべては偶然で運次第なのだ。だからこそ、普通に生きていること、生活できることに感謝しないといけないなぁと思わされた。

 

二度目。

観る者に想像する余白を与えたいい映画だった。結局、アーサーの父がトーマス・ウェインかどうかは分からない。母の写真の裏のT.Wがトーマス・ウェインかどうかは分からない。母は本当に妄想病だったのか、あるいはトーマス・ウェインがでっち上げて母を精神病院に監禁したかは分からない。

いずれにせよ、アーサー親子の生活は苦しく、社会の最底辺でセーフティネットからこぼれ落ちる。しかも、アーサーは、母にとって最後の希望だったトーマス・ウェインに邪険にされる。母のカルテを見たアーサーは、母の頭がおかしかったのだと大事にしてきた母を殺す。

電車のなかでトーマス・ウェインの部下を殺したときはまだ、罪悪感とやってしまった感があったが、希望がなくなったあとは、母やかつての同僚、人気者の司会者をためらいなく殺していく。

観る者は、アーサーのそれまでを知っているだけにアーサーを責められないはずだ。彼は悪魔ではなく、かわいそうな人間である。

進撃の巨人』ともつながる。人類がこれまでためらいなく斬ってきた巨人が実は人間で、しかも同じエルディア人だった。我々は知らないからこそ、平気で人を傷つけ責める。ジョーカーはひどいヴィランだと我々は思うが、ジョーカーが出来上がったプロセスを知ってしまった我々はジョーカーを責めることができるのか。

結局どうすれば、どうなればいいんだろうか。経済がよくなればいいのか。しかし、経済を追い求めてきた結果が環境問題なわけで、人間はひたすらに罪を背負った愚かな悪魔である。