ゲオに行ったら『ジョーカー』が置いてあったので借りてきた。
はてなブログを含めて去年の映画界で大きな話題を作った作品だったのでずっと気になっていた。
昨日さっそく観たのだが、やっぱり話題になるだけあって面白かった。
エンタテインメントではあるが、アメリカの政治情勢とも重なっている作品。どうして映画館の外に行政が警察を配備していたのかがよく分かった。
ジョーカーである主人公アーサーが、司会者のマレーと対面するシーンがある。
アーサーはピエロの化粧をしていて、マレーはそれについて「君も抗議運動を?」と尋ねる。それについてアーサーは「いいえ。ああいうのは信じない。僕は何も信じない」と答える。彼自身が抗議運動のシンボルとなっているにもかかわらず。
僕はこのシーンを見て、アーサーはマルクスみたいだなと思った。
というのも、マルクスは「自分はマルクス主義者じゃない」と言っていたから。マルクス自身がマルクス主義のシンボルであるにもかかわらず。僕はマルクスにあまり詳しくないけど、たぶん彼は、『資本論』や『共産党宣言』が自身が思っていたのとはべつの解釈をされていると思ったんじゃないかな。人々が解釈してつくりあげた思想と、自身の思想は違う。だから自分はマルクス主義者ではないと言った。しかしマルクスはインターナショナルをつくって革命を起こそうとしたから、結局はシンボルになることを受け入れたのだろう。
電車のなかでアーサーがウェインの部下3人を撃ち殺した事件を、街で不満を抱いていた人々が、エリートへの反逆だと解釈する。でも、マレーの「君がこの番組に出たのは、ブームを起こしてシンボルになるためか?」との質問に、アーサーは「カンベンしてよ、僕がブームの火付け役?奴らが最低だから殺しただけさ」と答える。
まぁでも最終的に彼は、暴動を起こしている連中に担ぎ上げられてシンボルになっている(シンボルになることを受け入れている)のだが。
こういう観点から、ジョーカーとマルクスはまるでコインの表と裏だなと思ったのである。どちらも既存のシステムをぶち壊そうとしている。どちらもエリートとは対極にいる人々とともにある。
マルクスは善で、ジョーカーは悪のようなイメージがあるけど、アーサーが言うように「この社会だってそうだ。善悪を主観で決めてる」。善と悪は表裏一体なのだ。
この映画を恐れた行政が警察を配備したのも十分納得できる。