ホテルに宿泊して、朝目覚めて、温泉入って朝飯を食べる。その後部屋に戻って、チェックアウトの時間まで、ベッドの上でポケ―っと物思いにふけるのがええねん。
中国だったかな「三上」って言葉があって、枕の上と、馬の上と、トイレの上が一番アイデアがひらめきやすいらしい。
まぁべつにアイデアをひらめかせるためにポケ―っと過ごしてるわけじゃないんやけど、泉から水がポコポコとあふれるように、いろんな空想妄想があふれてくる。
そのポコポコとあふれてる最中、ベッドの上だとどうしてこんなふうに空想がはかどるんだろうなと考えた。
チェックアウトという絶対的なラインが引かれてるからこそ、その限定された時間のなかだからこそ、空想がはかどるのかなということを考えた。
で、そういえばこれはハイデガーの『存在と時間』と同じではないかと思った。
死という絶対的なライン、先駆的な可能性に向かって自己を投企する。
空想がはかどる中でも、自分は常にチェックアウトのことも考えている。もしその時間を過ぎたら超過料金をとられるからだ。
このように、死=チェックアウトのことを常に見ているからこそ、本来的な自己は到来するわけだ。
しかしわれわれはいつだって、友人との会話などによって自らの死から目を背け、頽落状態にある。
そんなときに先駆的な可能性である自己へと目を見開かせるために、良心の声は沈黙を通して語り掛けてくる…
ま、そういうことを考えました。