ぼくは冠婚葬祭が大嫌いである。

 5月に親戚の結婚式があって、あぁ行きたくないな、面倒くせぇなという気分。

 あまりに行きたくないから、コロナウイルスで中止してくれんかなと願っている。

 あぁ本当にめんどくさい。

 

 冠婚葬祭が大事というのは分かる。

 それは一個の文化だし、なくなるべきではないと思っている。それでも、とにかくめんどくさいから、矛盾してるけどなくなってほしいと願っている。

 

 親戚づきあいがめんどうというのもあるけど、それ以上に、その場に適した感情を持ち、その場に適した振る舞いをしなければならないというのがしんどい。

 結婚式なら笑顔で祝福する気持ちでいなければならないし、葬式は悲しい気持ちでしんみりしていきゃいけない。それがなんかしんどい。なんというのかな、偽っているわけじゃないけど、偽っているような感じがする。

 

 この、うまく形容できないもどかしさは何だろうな、と考えていたら、最近読んでいるある本にうまいこと僕のもどかしさを説明している文章があった。

 

バンクーバー冬季オリンピックのときのこと、華やいだ開会式を観察して不思議な「居心地の悪さ」に襲われた。会場中が「肯定的態度」で塗り込められ、少数民族が崇め奉られ、愛と平和と美しい地球環境を望む声が場内に轟きわたる。グルジアの一選手が練習中に死亡したとのことで、グルジア選手団の入場の際には、会場を埋める人々が一斉に立ち上がり、割れんばかりの拍手。どこをとっても間違いない。しかし、なぜか不快感がじわじわ体内に広がったのである。なぜだろう、と詮索するに、すべてがあまりにも「よすぎる」ことに、私は「うそ」を感じてしまったのだろう。

                             P41

 

 あぁこれ分かるわぁ。

 この「肯定的態度」が冠婚葬祭でも充満してて息苦しくなるのだ。

 僕はポケ―として空想に耽るのが好きなのだが、結婚式ではそんなことはできない。そのときは笑顔を顔にはりつけて、新郎新婦にむかって祝福の笑みを見せつけなければならない。ぼくはきみたちのことをしゅくふくしているんだよ。自分の世界に耽って無表情でいると、きみには祝福の気持がないのかと咎められるから。あぁめんどくさ。

 

 ま、自分がひねくれているのは分かる。

 オリンピックだろうと、結婚式だろうと、葬式だろうと、その場に適した、つまりその集団や社会が求める振る舞いを本心から演じられるのなら、何の問題もない。そういう、ひねくれていない人間は何の苦もなく生きていける。

 でも僕みたいなのはひねくれているから、偽って演じなければならない。

 そういう機会に接するたびに、太宰の『人間失格』を思い出すのだ。はぁ。自己嫌悪。

 

 

非社交的社交性 大人になるということ (講談社現代新書)

非社交的社交性 大人になるということ (講談社現代新書)