500記事以上書いてもライターズハイは訪れなかった

はてなブログを始めた理由の一つにライターズハイを再び経験したいというのがある。ライターズハイという言葉があるのか知らないが、書いている時にいわゆるランナーズハイのような状態になることをライターズハイと呼ぶことにする。ランナーズハイというのは、ランナーなら一度は経験したことがあると思うが、走っている時に訪れるあの気持のいい状態のことだ。ずっと走っていると、いつのまにか、本当は疲れているはずなのに、呼吸も全く乱れないし、身体の疲れも全く感じない、延々と走っていられる気がするくらい気持ちのいい状態がランナーズハイ。脳内麻薬 人間を支配する快楽物質ドーパミンの正体という本によれば、このとき脳内ではベータエンドルフィンという麻薬物質が作り出されていて、これは末期がん患者に使うモルヒネの約6.5倍の強さらしい。脳は激ヤバの物質を自身で作れてしまうのだ。ランニング中毒に陥る人がいるのもうなずける。

書いていると強烈なハイ状態になったことが今までに一度だけあって、あの経験が忘れられない。しかも一番大事な、卒論を書くときにそれが訪れた。最高だったな、あれは。あれはすごかった。たとえるなら、心の底にある泉から言葉があふれ出て、自分はただそれを書きだすだけだった。自分に表現できないものは何一つとしてない、自分は天才中の天才だという強烈な多幸感のなかで文章は紡ぎ出されていった。紡ぎ出されたのである、自分が紡ぎ出したのではない。ただただ言葉が自分を通過していったのである。

面白いことに、卒論の内容はそれまでに自分が考えていたことの一つ一つの要素が有機的に結晶化されたものだった。自分の知り合いにいる40代の人たちから聞いた話で、40をすぎてくると、若いころに経験したさまざまなことが結びついて、「あぁあのときのあれはこういう意味があったのか」と分かる時が訪れるらしい。自分の経験してきたいろんなことが結晶化して、その視点から自分のそれまでしてきた経験の「意味」を理解できるようになったという。自分はまだ40になってないが、それと同じことが卒論で起きた。学生時代に得たさまざまな知識や経験の一つ一つが、結晶化し、一つの文脈となり、その文脈のなかで要素が意味を持っていた。表現は、自分の考えたことのない独特の言葉で、それは明らかに他人の文章なのに、その内容は「これは自分が考えてきたものだ」といえる不思議な文章だった。

自分は決して文才がある人間ではなく、そもそも大学のレポートでA4一枚埋めるのにものすごく苦労するくらい何も思い浮かばない。だけど卒論のときだけは、すらすらと言葉が思い浮かび、何の苦労もしなかった。ただしそれは第一章までで、それ以降は頭を必死に回転させて用紙を埋めていった。自分の頭で考えた文章はクソみたいにつまらない文章だった。

ライターズハイというのが自分以外にも起こるのかは知らないが、内田樹街場の文体論 (文春文庫)という本に、あぁこれこれ!というのが載っていたので引用しておく。

僕の経験が教えるのは、書いているときに、そのペンを駆動しているのは、「なんだかよくわからないもの」です。ソクラテスはこれを「ダイモニオン」と呼びました。「詩神」と呼ぶ人もいる。「霊感」と呼ぶ人もいる。誰かがふっと耳に吹き込んでくる。そういう受動的な経験です。ある種の受動性のなかに身を置いたとき、自分が自分のペンを統御していないときに書かれたものがしばしばすぐれた書き物になる。(中略)このヴィジョンがもたらすのは、こういう言い方をしてよければ、「受動的な全能感」なんです。自分があれもこれも一人で全部できるということではなくて、誰かに手をひっぱられて、空中高く引き上げられて、そこから幽体離脱したようなしかたで、自分の仕事を上から見下ろしている。そこに最後まで書き終えて深い満足感を味わっている自分が見える。この「受動的な全能感」に物書く人は烈しくアディクトする。だって、その瞬間にはたぶん脳内にエンドルフィンが大量に出ているわけですから。すさまじい快感なわけですよ。あの快感をもう一度味わいたいので、ついつい書いてしまう。 P203-205

 

そうそう、これなんだよ。これを味わいたいのだ。なのに卒論以来それは一度も訪れない。はてなブログを500記事以上書いても、いまだにそれは来ない。あぁどうしたらあれを味わえるのだろう。本当に、あれのためなら人生を懸けられるというくらい強烈なものだった。自分はもちろん薬物をやったことはないが、薬物にはまる人の気持ちには共感できる。あれを味わってしまうと、アディクトしてしまう。それ以外のすべてを犠牲にしてもあれを再び味わいたいと願う。