暇だということと時間があるということ

 

 暇だということと時間があるということは違うと思うんだが。

 

 「これやっといてよ、どうせ暇でしょ?」と言われて、「いや、暇じゃねーし!」と返す。

 

 たしかに時間はある。でもそれは暇だということではない。

 

 その、時間があるという状態のなかで、自分は本を読みたいし、映画を観たいし、バイオリンを弾きたいのだ。

 

 でもそれを言うと、「いや、それはいつでもできるやん」と返してくるのだ。

 

 いやいやいや。自分はいろいろなことに使える自由な時間をたくさん保持しておきたいのだ。

 

 その時間を暇とみなして、用事を押し付けてくるのはある意味、暴力ではなかろうか。

 

 たぶん日本人は、暇であるという状態と時間があるという状態を混同しているのだと思う。

 

 だから休みの日にどこかへ行ったりして休まないのだ。

 

 時間があるという状態は暇であり、その状態は何か用事を入れることによって解消されなければならないという強迫観念に日本人は支配されているように感じる。

 

 そういえば、大学に入ると、周りの人が須らくスケジュール帳を持っていたことに驚いた経験がある。

 

 自分は今まで一度としてスケジュール帳を持ったことがないのでとても驚いた。

 

 で、そのスケジュール帳の予定欄をびっしり埋めることにみな追われているようだった。

 

 毎日毎日何かしらの予定が入っていることがいいことであり、そういう人のことをみんなリア充と呼んでいた。

 

 自分は毎日予定が入っているなんて苦痛でしかないので、できるだけ予定なんかいれないようにしていた。非リア充である。

 

 大学を出たあとも、世間はそういう価値観をやっぱり有していて、僕が仕事が休みの日にぽけっーっと寝ころんでいると、「だらだらしやがって」と言われることもあった。世間は休みの日に休むことを許さないのである。

 

 僕が今いっしょに仕事をやっている仲間も、「おれは基本的にぐうたらしたいねん」と言っていたのだが、次々にいろいろな人と組んで仕事や事業に邁進している。

 

 まぁ、これからコロナやAIの影響によって、多くの人が仕事を失い、莫大な自由時間を手にするだろうが、収入がなくなることよりも、莫大な手持無沙汰な時間が手に入ってしまうことのほうが日本人にとっては恐怖かもしれんな。